せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

湊川河口の港・佐比江を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、旧湊川河口の町を歩いてみたいと思います。

湊八幡神社

鎮守稲荷神社から旧湊川の分流の道に戻ったところにあったのが湊八幡神社です。
この付近にはかつて西国街道が通っていて、兵庫の町の東の玄関口となる「湊口惣門」がありました。現在、その痕跡はありませんが、この神社の前には惣門があったことを示す石碑が建てられています。

七宮神社

阪神高速の高架を潜った先にまた神社がありました。こちらは神戸八社の一つである七宮神社です。こちらの神社も建立された時期が不明なのですが、もともとは会下山の麓にあったものを平清盛経が島築造の際にこの地に移したという説もあるようで、非常に古い神社です。

竹尾稲荷神社

七宮神社から倉庫や事務所が建ち並ぶ街を歩いていくと、小さな神社がありました。こちらは竹尾稲荷神社です。

高田屋嘉兵衛顕彰碑

小さな神社の境内には古い石碑がありました。こちらは江戸時代の豪商・高田屋嘉兵衛の顕彰碑です。この神社がある辺りには嘉兵衛の営んでいた高田屋の本店があったといわれています。

高田屋嘉兵衛は淡路島の都志本村(現在の洲本市五色町都志)の出身で、兵庫に来たのは22歳の時。兵庫の港で沖船頭などを務める中で頭角を現して昇格していき、ここ西出町に居と高田屋の本店を構え、蝦夷地(現在の北海道)や国後島・択捉島といった北方領土へと進出し、廻船商人として財を成していきました。前回訪れた西出鎮守稲荷神社には嘉兵衛が寄進した灯篭が今も残されています。

高田屋本店跡

竹尾稲荷神社の近くには高田屋本店跡の碑がありました。

廻船商人として財を成した高田屋は択捉島などで漁場の運営にも携わっていき、文化8(1811)年、ロシア海軍の軍人であるヴァシーリー・ゴロヴニーンを江戸幕府が捕縛したことに始まるゴローニン事件では報復的に拿捕されたものの、ロシアの役人と交渉して解決に貢献するなど、当時の日本を代表する商人となりました。嘉兵衛は隠居した後に故郷の都志に戻りますが、高田屋の本店は兵庫から箱館(函館)に移転。嘉兵衛の死後、高田屋はロシア政府との関係を幕府から咎められて没落し、現存していません。

兵庫の海を臨む

竹尾稲荷神社の先から兵庫の海を眺めてみました。地形も町も変わってしまいましたが、現在もここには物流を担う企業が多くあります。港にたたずんでみると、嘉兵衛が北へを漕ぎ出した港の面影をどこか感じることができるかもしれません。

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