せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

御着を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。 前回に続いて、御着を歩いてみたいと思います。

黒田家廟所

御着城跡の裏手に黒田家廟所がありました。江戸時代に福岡藩主だった黒田家がゆかりのあるこの地に建立たもので、向かって左が官兵衛の祖父の黒田重隆、右が官兵衛の父・職隆の妻の墓標です(職隆の廟所は妻鹿にあります)。

国分寺

御着城跡から国道を歩いていき、横道に入ると寺院がありました。こちらは国分寺です。

現在、この辺りでは御着城が知られるようになりましたが、もともとは播磨国分寺のある町でした。播磨国分寺が創建された年代はわかっていませんが、古代の天平13(741)年に聖武天皇の詔で日本全国に国分寺が設置された時期に創建されたと考えられています。また、国分寺の北側には国分尼寺もセットで建立されたそうです。

国分寺跡

現在の国分寺の南側には広場がありました。こちらはかつての国分寺があった場所であるとされています。戦後から発掘調査が行われ、現在は史跡公園として整備されています。

播磨国分寺は平安時代の末頃まで存在していたそうですが、その後衰退し、「国分寺」という地名だけが残されていたようです。しかし、安土桃山時代には豊臣秀吉、江戸時代には姫路藩から土地の寄進を受けて堂宇が再興され、現在の位置に復活しました。

国分寺山門を望む

国分寺跡から現在の国分寺の山門を眺めてみました。何となく、こちらが入口のような気がしてしまいますが、門は固く閉ざされていました。

今では姫路の市街を外れたのどかなこの辺りですが、市川の河岸段丘に生まれた平野は古代から播磨国の中心として機能してきました。御着城が置かれたのもそうした背景があったからと言えるのでしょうか。暦の上では立春を過ぎ、春ももう間近。大河ドラマ後の御着をゆっくり歩いてみませんか。

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