せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

長田・宮川を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、長田の宮川地区を歩いてみたいと思います。

長福寺

長田神社の裏手を歩いていくと、長福寺という寺院がありました。寺院といえば、塀に囲まれて重厚な山門があるイメージですが、この長福寺は特に塀もなくオープンで、山門もありません。枝を横に伸ばした立派な松の木が山門代わりなのでしょうか。

大日寺太山寺道

境内の片隅にこんな道標がありました。「從是大日寺太山寺道」とあります。ここから大日寺と太山寺への道ということですが、太山寺は西区伊川谷町にある古刹ですが、大日寺とは?

大日寺を目指して

長福寺からさらに山手に向かうことに。この辺りは苅藻川に向かって深い谷になっているため、意外と起伏に富んでいます。

平盛俊塚

住宅街の中に小さな石碑を見つけました。こちらは平盛俊塚です。平盛俊は伊勢平氏の武将で、剛腕の持ち主とされていました。一ノ谷の戦いの際にはこの地に陣を敷いていたのですが、鵯越から駆け下りてきた義経の軍勢に討たれて命を落としたそうです。

大日寺明泉寺

さらに坂道を登っていくと、立派な寺院が見えてきました。こちらが「大日寺」こと明泉寺です。

明泉寺の歴史は古く、奈良時代にまで遡るとも言われています。寺伝によると、行基が西代蓮池を造った際、その水源地(今の大日丘町の辺り)に大日如来を祀ったのが始まりと言われています。板宿から妙法寺へ越える道が開かれるまで、太山寺への参詣路はここを経由するルートがメインで、長福寺の境内で見つけた道標もこのルートを示しています。長田の水源を守る寺院として信仰を集めてきた明泉寺ですが、源平合戦の際、先ほど塚を見てきた平盛俊が陣を敷いていたために源氏の激しい攻撃を受けて焼失していまいました。この地に移転し再建されたのは南北朝時代の観応2(1351)年のことです。

明泉寺の境内

明泉寺の境内はそんな激しい歴史があったとは思えないほど、静かで穏やかな雰囲気でした。西代の蓮池は既になくなり、明泉寺を源とする水が潤していた長田の田畑は市街地に変わってしまいましたが、寺は今も長田の街を見守っています。

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