せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

加古川河口の港町・高砂を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて高砂の街を歩いてみたいと思います。

十輪寺の境内

十輪寺
の境内も松の木が多く、深い緑がまぶしいくらいです。
十輪寺は弘法大師・空海が開いたと伝わる古刹で、平安時代の弘仁6(815)年の創建と言われています。空海は真言宗の開祖ですが、現在の十輪寺は浄土宗。これは一体…というところですが、鎌倉時代の初め、法然がこの辺りの住民に説法をしたことをきっかけに浄土宗の寺院になったとのこと。

十輪寺の山門

十輪寺の見どころといえば、やはり、この二重屋根の山門でしょうか。江戸時代の享保21(1736)年の建立で、欄間の装飾が立派です。

車輪のモニュメント

十輪寺の前のロータリーにはこんなモニュメントが。こちらはかつてこの地を走っていた国鉄高砂線高砂駅跡のモニュメントです。

かつての加古川は摂津・播磨と但馬や丹波、丹後との物流の幹線で、何艘もの高瀬舟が川を上下していました。高砂が栄えたのはその物流の拠点としてでもありました。しかし、近代以降、小さな高瀬舟を使った水運は時代遅れとなり、その代替として鉄道が敷設されることになりました。大正2(1913)年に加古川から国包(現在の厄神)、そして、野村(現在の西脇市)までを開業させた播州鉄道が加古川対岸の高砂口までを開業させたのは同じ年の12月のこと。加古川を渡り、高砂の市街地に鉄道が伸びたのは翌年のことで、山陽電車より10年も前のことでした。舟運は鉄道に代わりましたが、高砂はしばらくの間、物流の拠点であり続けました。

線路跡

線路跡の細い遊歩道を歩いていくと、分岐点に差し掛かりました。線路跡の傍には信号機が保存されています。高砂駅方面に向かう右側が本線で、左側はかつてこの地にあった国鉄高砂工場やその西側に広がる工場への引き込み線の跡です。

舟運が鉄道に代わると、高砂の物流の拠点としての機能は次第に失われていきました。その代わりに、発達したのが重工業でした。遠浅の海を埋め立てた土地には工場が相次いで設けられ、高砂は工業都市として知られるようになりました。現在も海沿いには多くの工場が立地しています。加古川の水運の代替として敷設され、後に工業地帯の物資の輸送を担った高砂線は高砂が近代都市に生まれ変わるのを見つめてきたというわけですね。そんな高砂線が廃止されたのは国鉄民営化が近づいてきた昭和59(1984)年のことでした。

高砂駅

高砂線の線路跡をたどり、高砂駅に戻ってきました。高砂の街をぐるりと一周すれば、中世都市が近代都市へ生まれ変わった過程を見ることができます(!?)。このお休みは高砂で街歩きはいかがでしょうか。

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