せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

甲子園を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、甲子園を歩いてみたいと思います。

鳴尾球場跡地

甲子園筋を歩いていくと、鳴尾浜公園に突き当たりました。
鬱蒼と木が茂った公園ですが、かすかに潮の香りがします。
公園の中には「鳴尾球場跡地」 の碑がありました。
現在、高校野球といえば阪神甲子園球場で行われていますが、最初の全国中等学校優勝野球大会は香櫨園に設けられたグラウンドで行われ、後に豊中グラウンドに移転してからここ鳴尾で行われるようになりました。ただしその球場はなんと競馬場の中に野球場を二面設けた急ごしらえのもので、観戦席は木製の仮設のもの。球場の水はけは非常に悪く、すぐに近隣に代替地を設けることになりました。その代替地こそが現在の阪神甲子園球場です。鳴尾球場が使われたのは大正5(1916)年からのわずか7年ほどの間でしたが、野球に何かしらの縁があるのか、今でもこの碑の近くには野球場が設けられていました。

大阪湾を望む

野球場の横を通り抜けると堤防の向こうに大阪湾が広がりました。おおよそこの辺りが枝川の河口に当たります。かつての甲子園は大阪湾を望む土地に競馬場や競輪場、そして、遊園地が建ち並ぶ海辺の行楽地でした。今では工場の建設や埋め立てによってかつての面影はありませんが、海を渡る風は当時のままなのでしょうか。

埋立地の跡?

海底が見えるほど浅い海の沖に岩のようなものが一列に並んでいるのが見えました。かつてこの地にあった初代の甲子園阪神パークは海に張り出した埋立地に設けられていました。 現在、その埋立地は残っていませんが、この一列に並んだ岩は埋立地の護岸の跡なのかもしれません。

前回も説明しましたが、甲子園阪神パークが開園したのは昭和4(1929)年のこと。園内には動物園や遊園地、そして、水族館があったそうです。特に、水族館は戦前の日本では最大級のもので、イルカショーも観られたそうです。阪神間有数のレジャー施設だったのですが、戦争の激化により昭和18(1943)年に軍に接収されて取り壊され、跡地は海軍の鳴尾飛行場が建設されました。遊園地が取り壊されて戦争のための軍の施設になってしまうとは、何とも悲しいものを感じてしまいますね。

夢の跡

海辺を歩いていると、岩が転がる磯のような一角にたどり着きました。ただし、波に洗われているのは天然の岩ではなくどう見ても鉄筋コンクリートで、長年波を受け続けて輪郭が曖昧になっていますが、何かの基礎のようなものもちらほらあります。これが何者なのかはわかりませんが、位置を考えると初代甲子園阪神パークの残骸なのかもしれません。

さて、今回は甲子園を中心に歩いてきましたが、この辺りの歴史を語るうえで忘れることができないのが、何度も登場した鳴尾飛行場です。次回は鳴尾飛行場の痕跡を巡って歩いてみたいと思います。

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