せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

旧西国街道と神戸(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて神戸の都心で旧西国街道を辿ってみたいと思います。

生田ロード

生田神社門前で垂直に曲がった旧西国街道は生田ロードとなって南下して行きます。交差するのは三宮センター街。賑やかな繁華街の景色に目がくらみそうになります。

花時計線

生田ロードを南下した旧西国街道はさらに垂直に曲がって市道花時計線となり西へと向かいます。気になるのは道路の奇妙なカーブ。しかも、この花時計線を境に南北の通りも微妙にカーブしています。神戸の方にはもはや説明は不要かもしれませんが、この南側はかつての外国人居留地。この旧居留地の北側が土地の傾斜に沿った町割り…いわば、山を基準軸とした町ならば、旧居留地は海を基準軸とした町割りでした。この通の微妙なカーブは「山の町」「海の町」の接点であることを示していると言えましょうか。

神戸に外国人居留地が開かれたのは幕末の慶応3(1867)年のこと。日米修好通商条約を始めとして、英仏露蘭と次々に結んだ条約(安政の五カ国条約)に基づいて古くからの港町でこれらの条約によって開港地に選ばれた兵庫に隣接する神戸に設けられたものでした。

三宮神社

花時計線を歩いて行くと、ビルの谷間に佇む神社にたどり着きました。こちらは三宮神社。バス停の名称にもなっていて、「三宮神社」行きのバスを見かける機会も多いかと思いますが、実際の神社は小ぢんまりとしています。 この三宮神社の前で西国街道の長い歴史の中でも大事件が起こったのは居留地が設けられた翌年の慶応4(1868)年。西国街道を通行中の備前藩の隊列をフランス人水兵が横切りました。無礼な行為に怒った備前藩士が水兵に斬りかかり軽傷を負わせたことで銃撃戦に発展、双方に負傷者が発生する外交事件となりました。最終的にフランス人水兵に斬りかかった備前藩士が切腹することで事態をおさめることになりましたが、この事件は後に「神戸事件」と呼ばれるようになり明治新政府にとって最初の外交事件として歴史に残ることになりました。そんな歴史の舞台となったことが信じられないくらい、神社は静かに佇んでいました。

元町商店街

旧西国街道は元町通交差点へ出ました。この先、街道はさらに西へと向かっていきますが、旧街道と神戸の町を巡る旅はここで行ったん終えることにしましょう。

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