せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

近松門左衛門を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、尼崎に江戸時代の人形浄瑠璃作家・近松門左衛門を訪ねて歩いてみたいと思います。

近松門左衛門像

記念館の前には近松の像が建っていました。
教科書などに掲載されている絵と比べると、どこか温和な表情のように見えます。

広済寺

近松公園に隣接して佇んでいたのが広済寺です。

広済寺は平安時代の武士の源満仲(多田満仲)が妙見菩薩をまつるために天徳元(957)年に創建されたという非常に歴史のある寺院です。妙見菩薩をまつる霊場といえば、関西では大阪の能勢妙見が知られていますが、歴史としては実は広済寺の妙見宮のほうが古いとされています。ところで、この妙見菩薩とは何者かといえば…、簡単に言えば中国の道教で神格化されていた北極星が仏教と結びついた神ですが、日本に伝わってからはさまざまな宗教と結びついていったようでなかなかマニアックで複雑なようです。

近松門左衛門墓所

広済寺の境内には近松門左衛門の墓所がありました。近松の生まれは越前(現在の福井県)とされ、浄瑠璃作家として活躍したのも京都や大阪であるにもかかわらず、墓所が尼崎にあるのは一体…?

古い歴史のある広済寺ですが、南北朝時代の戦乱もあり中世には荒廃していたそうです。その広済寺を再興したのが日昌上人なる人物で、近松と日昌上人が知人であったためか、近松は広済寺再興の本願人となりました。このとき境内には「近松部屋」なる建物が設けられ、近松はこの部屋でも執筆を行なったそうですが、現存していません。再興後、大阪から程よい距離にあり、有馬温泉への街道筋にあった広済寺は多くの参拝客で賑わうことになりました。この頃の近松は代表作の「曾根崎心中」がヒットし、人気浄瑠璃作家となっていましたが、これら心中物がブームとなったために実際の心中事件が多発することになったそうで、享保8(1723)年に江戸幕府は心中物の上演を禁止するとともに心中事件に対して厳しい処置をするようになりました。「曾根崎心中」が再演されるようになったのはなんと、戦後になってからでした。近松は幕府の禁止令の翌年の享保9(1724)年に亡くなり、縁のあるここ広済寺に墓所が設けられました(諸説あるようです)。

須佐男神社

広済寺に隣接して神社がありました。
こちらは須佐男神社です。妙見宮の参拝客で賑わった広済寺ですが、明治に入り神仏分離令によって妙見宮はこの須佐男神社として分離させられてしまいました。
その後、有馬道の妙見宮として栄えた広済寺は再び衰退していきますが、戦後、市街化とともに今度は地域の寺院として親しまれるようになっていきました。

近松門左衛門を訪ねて歩いてみると、今まで見てきた尼崎とは違う尼崎を発見したような気がします。近松記念館の訪問を兼ねて、再訪してみてもいいかもしれません。

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