せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

水の都・徳島を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回・前々回に続いて徳島を歩いてみたいと思います。

西の丸へ降りる

徳島城
の本丸跡から西の丸のほうへと下ることにしました。
東側と比べてこちらは城郭の雰囲気がよく残っています。

西二の丸跡

山中に西二の丸跡の看板を見つけました。西の丸には現在の内町小学校の位置に西御殿があるなど各種設備がありましたが、多くは失われ、森に還っています。

蜂須賀家が江戸時代に渡って城主を務めてきた徳島城ですが、明治に入り廃城令によって大半の建物が取り壊されてしまいました。後には徳島中央公園が整備され、行政機関の建物も造られました。しかし、昭和20(1945)年の徳島大空襲で建物の多くが焼失。徳島城の建物で唯一取り壊しを免れていた鷲の門もこの時に失われてしまいました。前々回紹介した鷲の門は平成元(1989)年に再建されたものです。

沖洲川

徳島城鷲の門からしばらく歩くとひょうたん島と福島を隔てる沖洲川に出ました。助任川から分かれた沖洲川は徳島の市街で複雑に分かれ「水の都」を形成する川の一つとなっています。下流では新町川と合流し、河口付近には徳島と和歌山とを結ぶ鉄道連絡船「南海フェリー」のターミナルがあります。

現在は穏やかなこれらの川ですが、地図を見ればわかるように、徳島市の西側の石井町付近からの吉野川流域は吉野川の本流を中心に大小の河川が複雑に入り組んでいます。中央構造線を流れる四国三郎・吉野川は流域の人々に水の恵みをもたらすと同時に、時に洪水の被害をもたらしました。

福島橋

沖洲川に架かる福島橋は現在も幹線道路が通る徳島にとって重要な橋ですが、洪水などによって何度も流され、橋がない間は渡し船を使うなどでしのいでいました。この地に新しい橋が架けられることになったのは江戸時代の寛永13(1636)年のこと。しかし、暴れ川での架橋は難工事が予想されました。そこで、着工日の亥の刻に通りかかった人を人柱にしようというアイデアが持ち上がりました。当日の亥の刻、通りかかったのは六部(法華経巡礼者)で、住民の懇願により人柱となることを承諾し、棺桶に入って49日間鉦を叩き続けたといいます。そのおかげか、橋は無事に完成しました。その後、何度も橋は架け替えられ、現在はコンクリート製の橋梁になりましたが、現在でも人柱の部分を避けるために北側の歩道は大きくカーブを描いています。

沖洲川を眺める

橋の上から沖洲川を眺めてみました。青々とした川がゆったりと流れ美しい景色です。

徳島にはこのほかにも阿波踊り会館やロープウェイで上る眉山など見どころがたくさん。また、徳島ラーメン阿波尾鶏、豊かな海産物などのグルメも楽しむことができ、山陽沿線からの小旅行にぴったり。現代の徳島を満喫しながら、水の都の歴史に思いをはせてみませんか。

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