せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

水の都・徳島を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、徳島を歩いてみたいと思います。

徳島城博物館

公園内を歩いていると、徳島城博物館に着きました。こちらは徳島市立の施設で、徳島藩や江戸時代を通して徳島藩の藩主を務めた蜂須賀家の資料や美術品を展示しています。

旧徳島城表御殿庭園

博物館に隣接してあるのが「旧徳島城表御殿庭園」。こちらは江戸時代の初めの1600年ころに築かれたという枯山水と池泉回遊式庭園を組み合わせた桃山様式の日本庭園で、徳島城の緑を背景に青々とした松が美しい庭園です。こちらの庭の池の水は城の北側を流れる助任川につながる堀から引いており、海水が混じるとのこと。こんなところからも、水と共に生きた徳島の街の歴史を感じることができます。

本丸へ

博物館の裏手から徳島城の山へ登ってみることにしました。かつて城郭があった山は鬱蒼とした木々に覆われていて、ただの山のようです。ただし、草むらの中には表御殿庭園と同じく独特の青みがかった眉山の石で作られた石垣が顔を出していて、ここが城郭であることを物語っています。

徳島城の歴史は南北朝時代の至徳2(1385)年に、この地の南朝勢力を討った細川頼之が城を築いたことに始まります。水に恵まれたこの地を頼之は中国は黄河流域の渭水(現在の中国甘粛省から流れ陝西省で黄河に合流する川で、流域の渭河平原には古都・西安などの大都市があります)に例えて渭津と呼び、城を渭山城と呼びました。日本の主要都市で中国風の名前の都市と言えば岐阜が思い浮かびますが、徳島もこの当時の呼び名のままであれば「渭津市」などと呼ばれていたのかもしれませんね。

東二の丸跡

山道の途中に「東二の丸跡」という案内がありました。文字通り、この場所には徳島城の東二の丸があったのですが、なんと、徳島城の天守はこの場所にあったそうです。多くの城では天守は城の一番高い場所にあり、徳島城も築城当初はこの上の本丸に天守が築かれていたそうなのですが、江戸時代初めの元和年間に取り壊されたそうで、その後、代替としてこの東二の丸に天守が築かれました。何でこんな中途半端な場所に天守を築いたのかは不明ですが、景観を考慮したとも言われています。

戦国時代に入りこの地を治める者はたびたび代わったのですが、天正10(1582)年に土佐の長曾我部元親が阿波を平定。後に秀吉の四国攻めと四国国分で阿波は秀吉の支配下になり、木津城(現在の鳴門市撫養にあった城)の攻略で功績のあった蜂須賀正勝の息子の家政が城主となり、現在の徳島城を築城。以後、江戸時代を通して蜂須賀家が代々城主を務めました。ちなみに、正勝の娘の黒田官兵衛の息子・長政の最初の正室でした。

本丸跡

山道を上り詰めて本丸跡にたどり着きました。 先述のように、築城当初はここに天守があったのですが、東二の丸に移ってからは広場のようになっていたそうです。

本丸跡からの景色

本丸跡の周りは木々が鬱蒼と茂っていて、思ったほど眺めはよくありません。しかし、木々の合間からわずかに徳島の市街地や眉山を望むことができました。

中国・渭水にもなぞらえられた風光明媚な水の都・徳島ですが、その歴史は美しく楽しいばかりではありませんでした。もう少し、水と共にあった徳島の街を歩いてみたいと思います。

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