せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

水の都・徳島を歩く(前編)

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お出かけ日和の気持ちの良い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

徳島駅

今回訪れたのは徳島
四国というだけで遠いような気がしてしまいますが、神戸三宮からは山陽バス他が運行する高速バスで2時間弱。高速舞子からなら1時間20分と実は思ったほど時間はかかりません。

徳島城鷲の門

高速バスが到着した徳島駅前から街中を歩いていくと、徳島城跡鷲の門の前にたどり着きました。

徳島は四国三郎・吉野川の河口に位置する街で、徳島県の県庁所在地です。古くから阿波国の中心で、紀淡海峡を臨み広大で肥沃な徳島平野を背景にもつ豊かな街として栄えてきました。地図を見てみないとなかなか意識をしにくいのですが、市街地には吉野川の支流が多く流れ、支流によって分断された中洲にはそれぞれ名前が付けられています。徳島駅や徳島城跡のあるこの辺りはその名も「ひょうたん島」。何だか流されていきそうな名前ですが、古くからの地名「瓢箪島」に由来とするともされ、意外に由緒ある地名です。
地形からもわかるように、徳島は川とともに生きた町、「水の都」というわけです。

徳島運転所を眺める

鷺の門の傍にはJR牟岐線を乗り越える陸橋がありました。陸橋の上からはJR四国の徳島運転所と徳島城跡の森を眺めることができます。

現在、徳島の中心市街地となっているひょうたん、実は近代に入ってから生まれた新しい島です。現在のひょうたん島は近世まで「徳島」「寺島」「出来島」の三つの中洲に分かれていました。徳島は現在の徳島城跡とその周辺、寺島は徳島駅前の市街地、出来島は徳島駅の北西の地区に相当し、今も住所表記にその名が残されています。徳島と寺島の間には寺島川が流れていて徳島城はこの川を天然の堀として利用していました。状況が変わったのはJR徳島線の前身の徳島鉄道徳島駅を開業させてから。徳島から吉野川沿いの路線を開業させた徳島鉄道は明治32(1899)年に寺島の北側に寺島川を埋め立てて徳島駅を開設しました。寺島川の流路は鉄道の線路敷として埋め立てられていきます。鉄道開業当初は線路と川が共存する景色だったのですが、現在のJR牟岐線となる小松島軽便鉄道の開業、徳島運転所の設置で車庫が設けられるなど、鉄道施設の拡張に伴って川は徐々に埋立てられ、寺島と徳島は地続きになりました。同じ頃、出来島と徳島・寺島も市街化に伴て地続きとなり、巨大なひょうたん島が誕生しました。

舌石

鉄道の開業で消滅した寺島川ですが、線路敷の北側の水路にわずかに名残を見ることができます。城跡の堀に鉄道が設けられた例といえば、東京の中央線が思い浮かびますが、
寺島川は徳島城の堀を兼ねていたので、城側には立派な石垣が築かれています。石垣をよくよく見てみると所々に石の出っ張りがありました。こちらは舌石。説明看板によるとかつて石垣の上には徳島城の塀が設けられており、この舌石の上には「屏風折壁」という攻撃のために堀に飛び出した形状の塀があったそうです。今ではほとんどわからなくなっていますが、わずかな痕跡がここが堀であったことを伝えています。

何だかすでにいろいろ見て回ったような気分ですが、徳島にはまだまだ見どころがたくさんあります。もう少し、徳島城を歩いてみたいと思います。

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