せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

明石城の高低差を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、明石城の高低差を巡っていきたいと思います。

桜堀

本丸跡から明石城の北側に当たる桜堀へ下ってみました。
「堀」と名前が付けられていますが、急な斜面に囲まれて谷底の池といった雰囲気です。明石駅から眺めただけでは、城内にこんな景色があるとはとても想像ができませんね。

小笠原忠真が候補地の中からこの地を明石城の築城場所に選んだその決め手となったのがこの台地と池の存在です。この桜堀や北側にある剛の池はもともとこの地にあった池を拡幅して堀の機能を持たせたものです。また、北側を流れる明石川も天然の堀として利用しました。結局のところ、実際に堀を開いたのは南側の外堀・内堀と東側の台地上にある薬研堀のみと、とことん天然の地形を利用した城でした。明石城が着工された元和5(1619)年という時期は大坂夏の陣豊臣家が滅亡し、平和な江戸時代が始まった頃。その頃に明石城は中世の城郭のようにがっつり戦いを意図して作られたわけですから、何だかちょっと不思議な気がしてしまいます。

天守台

本丸に戻って見つけたのがこちらの石垣。こちらは天守台です。

明石城には本丸の四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓の櫓が設けられましたが、天守閣は台座が用意されたのみで建物が建設されることはありませんでした。先述のように明石城が築城された頃から平和な江戸時代が始まり、城に政治拠点としての機能が求められるようになりました。天守閣は戦いの際の指令拠点や城主の権威を示す象徴として設けられてきましたが、戦いの時代が終わると江戸幕府へ遠慮したり、天守閣自体が非効率な設備として建設が中止されたり江戸城や大坂城のように焼失したまま再建されない等の例が多くみられるようになりました。明石城もその一つですが、天守台の規模から五層程度の天守閣が計画されていたのではないかとの説もあるようです。五層といえば、規模は多少異なりますが、松本城名古屋城のような天守閣…。そういえば、小笠原忠真は明石に移る前に松本城主を務めていましたね。

坤櫓

城の南西にあるのが坤櫓です。明石城の櫓の中でも最も大きく、設けられなかった天守閣の役割を果たしていたとされています。もとはといえば伏見城の建物を移築したものとのことで、紅色が差された破風が何とも美しいですね。

明石城模型

櫓の中は一階のみが公開されていて、各種資料が展示されていました。中でも目を引いたのが明石城の復元模型です。博物館などでよくあるものではありますが、これまで見てきた明石城の高低差をこの模型ではっきりとわかることができました。小笠原忠真がこの地に中世的な城郭を築いた理由はわかりませんが、明石城がここに設けられたために、城と海の間に町が生まれ、海とともにある都市が生まれ、様々な文化が育まれていきました。私たちが明石焼きを食べることができるのも、ここに明石城があったから…、いえ、高低差があったからなのかもしれません。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。