せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

山岳信仰の聖地・増位山随願寺を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続き、姫路の増位山随願寺を歩いてみたいと思います。

自然に還りゆく石段

念仏堂からは石段の道がひたすら続きまが、長年、風雨にさらされた石段は崩れ果てていて、歩くのにはなかなか難儀します。
書写山や廣峯山でお馴染みの丁石を数えながら黙々と登ることにします。

随願寺本堂

山道を30分ほど歩いて随願寺本堂に到着しました。
意外に小ぢんまりとした雰囲気ですが、江戸時代の元禄年間に建てられたという本堂は優美な雰囲気があります。

随願寺は平安時代に天台宗となりましたが、この頃、播磨では天台宗の勢いが強く、書写山圓教寺法華山一乗寺など他の天台宗の寺院とあわせて播磨六山と呼ばれるようになりました。特に随願寺は朝廷から尊崇されたそうで、非常に栄えることになりました。
しかし、戦国時代に入り、三木合戦の際に焼き討ちに合い、諸堂は全て焼けてしまいました。

榊原忠次墓所

境内を歩いていくと、エキゾティックな雰囲気の建造物が。
こちらは江戸時代前期に姫路城主を務め、三木合戦で焼き討ちに遭った本堂を再建した榊原忠次の墓所です。朱塗りの建造物は唐門と呼ばれ江戸時代の享保16(1731)年に建てられたものです。門の向こうの墓碑には忠次の生い立ちや館林藩(現在の群馬県)、白河藩(現在の福島県)を経て姫路藩の藩主となった経歴などが記されているそうです。ちなみに、この碑文を一字も間違わずに読み上げると墓碑に彫られている亀が動き出すという伝説があります。

三木合戦で焼き討ちにあった随願寺の諸堂ですが、秀吉と榊原忠次によって徐々に再建され、江戸時代に入っても厚い信仰を集めるようになり、多くの参拝客が訪れました。以前訪れた野里地区もこの随願寺の門前町として栄えた街です。

開山堂

境内の奥には「奥の院」 と呼ばれる開山堂が佇んでいました。こちらは江戸時代初めの建築とされ、随願寺の諸堂の中では最古の建物とされています。

江戸時代にも栄えた随願寺ですが、明治時代に入り、廃仏毀釈によって衰退しまいました。現在、書写山圓教寺廣峯山が大河ドラマ効果のあって姫路の観光スポットとして注目を集めている一方で、随願寺は増位山の山中に静かに佇んでいます。険しい道のりを歩くことになりますが、静かな境内は山岳信仰本来の雰囲気を残しているということでしょうか。

かつての賑やかだった境内に思いを馳せながら、石段を降りることにしました。
爽やかなこの季節、静かな聖地・増位山随願寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

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