せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

古代史ロマンを求めて~百舌鳥古墳群を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、大阪の百舌鳥古墳群を歩いてみたいと思います。

履中天皇陵

堺市博物館で古墳の空撮映像に大興奮した後に訪れたのが大仙公園の南側にある「履中天皇陵」こと、「百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」です。こちらの古墳は隣の仁徳天皇陵古市古墳群(大阪府羽曳野市・藤井寺市)にある応神天皇陵に次ぐ日本で3番目の大きさの古墳です。

履中天皇陵の正面

15分ほど歩き、住宅街の中にある履中天皇陵の正面に辿り着きました。履中天皇陵は仁徳天皇陵とは違い濠が一重しかない(かつては二重だったそうです)ため、外から墳丘を眺めることができます。

履中天皇陵は仁徳天皇の子で第17代天皇とされる履中天皇を葬った古墳とされています。ただし、考古学的にはこの履中天皇陵の方が仁徳天皇陵よりも古いそうで、本当は誰が埋葬されているのかは謎だそうです。中国の歴史書には百舌鳥・古市古墳群の古墳の多くが築造された西暦400年代に讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の五人の王(「倭の五王」と呼ばれます)が代々朝貢に訪れたとの記録があり、このうちが第21代天皇の雄略天皇であることは確実とされています。そこから逆算し、古墳の年代を考慮するとと呼ばれる人物がこの履中天皇陵に埋葬されているのではないかという説が有力とされています。ただし、中国の記録と『日本書紀』『古事記』などの記述とが食い違うところがあり、結局のところ詳しいことはわかっていません。

いたすけ古墳

履中天皇陵から15分ほど歩くと、またまた古墳が見えてみました。
こちらは「いたすけ古墳」と呼ばれる古墳です。百舌鳥古墳群の中では8番目の大きさがありますが、天皇家の陵墓とはされていません。そのせいか、過去には住宅開発のために破壊の危機に瀕したことがあります。周辺住民などの反対で保存されることになりましたが、古墳の濠には今も工事の際に設けられた橋が残されています。百舌鳥古墳群にはかつて今以上に多くの古墳があったようですが、履中天皇陵の南西にあった百舌鳥大塚山古墳をはじめ、開発により多くが破壊されてしまいました。しかし、近年になり、古墳の歴史的価値から保存運動が盛んにおこなわれるようになり、百舌鳥・古市古墳群を世界遺産にしようとする活動も広がりを見せています。

いたすけ古墳を眺める

仁徳天皇陵や履中天皇陵と比べてこのいたすけ古墳は小さいため、濠の外からでも鍵穴型の形状がよくわかります。埋葬されている人物は謎とのことですが、後円部から発掘された衝角付冑型埴輪と呼ばれる甲冑を模した埴輪は堺市のシンボルにもなっています。

既に古墳尽くしになってきましたが、百舌鳥古墳群にはまだまだ古墳があります。
もう少し歩いてみることにしましょう。

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