せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

水の記憶・旧生田川を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、旧生田川を辿って三宮の街中を歩いてみたいと思います。

北向地蔵

三宮駅の北側、北野坂の路地にこんなお地蔵さんがありました。こちらは「北向地蔵」です。かつての生田川は所謂天井川で、大雨のたびに氾濫し、神戸の村はそのたびに大きな被害を受けていました。伝説ではある時の大雨で旧生田川が氾濫寸前になった際、このお地蔵さんが堤防の決壊を防いでくれたとのこと。それ以来、このお地蔵さんは堤防の方を向いて北向きに安置されているそうです。生田川の流れが変わった後も三宮の街を見守っています。

加納宗七

フラワーロードを歩き、市役所の南側の東遊園地に着きました。こちらはルミナリエの会場としても知られる公園です。
公園の中にひっそりとあったのが加納宗七なる人物の記念碑。
加納宗七は江戸時代、紀州・和歌山城下に生まれた人物です。宗七の生まれた宮本家(後に加納家に改めます)は和歌山で廻船業などを営んでいました。
加納家は紀州藩の御用商人として栄えたようですが、宗七は討幕運動に参加したことで江戸幕府から追われるようになります。幕府から逃れた末にたどり着いたのが当時開港地として発展していた神戸。宗七はここで様々な事業を起こし、剤を蓄えました。

加納橋

東遊園地の中には「加納橋」と書かれた石碑のようなものがありました。こちらは旧生田川に架かっていた橋の欄干です。公園内の水路は旧生田川をイメージしたものとのこと。

明治時代に入り、大商人となった加納宗七は明治政府から生田川の付け替え工事を請け負いました。難工事が予想されたのですが、わずか3ヶ月で宗七は工事を完成させました。跡地には後に「滝道」と呼ばれることになる大通りが建設され、川と堤防の跡地は宗七が落札し市街を整備しました。このことから、旧生田川の右岸に当たるフラワーロード西側の一帯は加納宗七の名にちなんで「加納町」という地名がつけられるようになりました。

新生田川

最後に訪れたのは新生田川に架かる国道2号線の「新生田川橋」。真っ直ぐな川が大阪湾へと伸びています。流路が変えられた生田川は天井川ではなくなり、かつてのように氾濫を起こすことはほとんどなくなりました。
神戸の街が今のように賑わい、私たちが三宮で遊んだり買い物したりできるのも、加納宗七のおかげかもしれません。

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