せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

黒田官兵衛周遊のすすめ(参) 姫路城と歴史館

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
引き続き、「ひめじの官兵衛1dayパス」こちら)を使って旅をしていきたいと思います。
(前回までの記事はこちら(壱)(弐)

姫路城内へ

大河ドラマ館から改めて姫路城内へ。
「ひめじの官兵衛1dayパス」に入城券はついていませんが、大河ドラマ館の出口で半額割引券をもらえます。大河ドラマ館→姫路城という順番で巡るのがお勧めです。

官兵衛の歴史館

城内の「リの一渡櫓」には「官兵衛の歴史館」が設けられていました。
館内では黒田二十四騎の紹介や鎧の展示などがされています。
大河ドラマ館と比べると地味な印象ですが、本物の櫓の中で歴史に触れることができるのは考えてみればなかなかすごいことですね。

姫路城の歴史は古く、中世にこの地にあった姫山に陣が敷かれたのが始まりとされています。城として整えられたのは赤松貞範が貞和2(1333)年に「姫山城」を築いてからのこと。ただし、当時の城は砦のようなものだったと言われています。造営当初は播磨の拠点とされていた城ですが、赤松氏が置塩城に、のちに城主となった小寺氏御着城に移ると御着の支城となりました。このときに城主となったのが小寺(黒田)職隆で、のちに、息子の官兵衛が城主となります。ただし、黒田親子の時代の姫路城も砦のようなものだったようで(大河ドラマ館に当時の模型が展示されています)、この地域の政治の中心は御着にありました。

西の丸長局(百間廊下)

歴史館を見学してから、城内を歩いてみます。
天守閣とその周辺は工事中で立ち入りができませんが、西側にある「西の丸長局」は見学することができました。こちらは「百間廊下」としても有名な建物です。

姫路城が現在のような城郭になったのは、天正8(1580)年に官兵衛が秀吉に城を献上し、その際に三層の天守閣が設けられてから。関ヶ原の合戦の後の慶長6(1601)年には城主の池田輝政が大改修に着手し、現在のような大規模な城郭として整備されていきました。
平成5(1993)年にはユネスコの世界文化遺産に登録され、現在はご存知のように平成の大修理の真っ最中です。

十文字紋の鬼瓦

城内の「にの門櫓」でこんな鬼瓦を見つけました。
キリスト教の十字架があしらわれた鬼瓦です。
官兵衛がキリシタン大名であったことから、官兵衛が設けたものという説があるのですが、先述のように姫路城が今のような城郭に整備されたのは官兵衛が姫路城主だった時代のずっと後のこと。もしかすると、秀吉が造った三層の天守閣に官兵衛が瓦を提供していて、それが後の姫路城でもリユースされたという可能性もありますが、詳しいことは謎です。
ただ、官兵衛の生きた頃からすっかり様変わりした姫路城の中に現代でも当時の名残を見ることができるという風に考えると、急に官兵衛が身近に感じられ、ちょっと楽しくなってきます。

姫路城を巡り、満足してきたところですが、「ひめじの官兵衛1dayパス」の旅はまだ続きます。もう少々お付き合いください。
ということで、次回に続きます。

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