せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

黒田家所縁の中世都市・備前福岡を歩く(後編)

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新年、明けましておめでとうございます
本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします。

さて、昨日から大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まりましたね。
官兵衛の幼少期から物語が始まったため、歴史部がこれまで活動してきた廣峯神社御着城などが多く取り上げられたので、何だか嬉しくなってしまいました。続きにも是非期待したいですね。

ただ、歴史部では物語のスタートを深読みしすぎてしまい、官兵衛が生まれる前の時代まで黒田家のルーツを遡って備前福岡を訪ねています。ドラマをご覧になった方は、黒田家が姫路へ移る前にこんなことがあったのか…と見ていただければ幸いです。

では、前回に引き続き、備前福岡を歩いてみたいと思います。

妙興寺

妙興寺
は応永10(1403)年、播磨の国主だった赤松則興の供養のために息子の大教阿闍梨日傳上人が建立した寺院と言われています。今は静かなお寺ですが、最盛期には広大な寺域を持っていたとのこと。前回は黒田家がメインの紹介になってしまいましたが、寺院としてもかなり由緒ある古寺です。

火の見櫓

備前福岡の歴史にはあまり関係ありませんが、妙興寺からの道でレトロな火の見櫓を見つけました。横の集会所のような瓦屋根の建物との組み合わせでいい雰囲気です。

福岡の市

妙興寺から吉井川の堤防に向かって歩いて行くと、小さな社が現れました。

「福岡の市跡」の石碑

こちらは戎神社で、境内には「福岡の市跡」の石碑が。

前回も少し触れましたが、備前福岡は山陽道と吉井川の交点に栄えた都市で、中世には「福岡千軒」とも呼ばれ、西国一の都市として栄えました。その賑わいは有名な「一遍上人絵伝」にも描かれています。
中世にはこのような商工業都市が各所に現れ(以前紹介した英賀もその一つですね)たのですが、江戸時代以降に城下町となった町が商工業の中心としても栄えるようになり、多くは消えていきました。
福岡も天正期に宇喜多直家が岡山城築城の際に城下へ商人を移住させたことや吉井川の氾濫による水害と流路が変わったことによって地域が分断されたこと等をきかっけに衰退を始めます。山陽道の宿場町であったことから中世都市の中では比較的遅い時期まで都市として賑わいましたが、明治以降の交通手段の変化等により都市としての体裁は失われていきました。昭和に入って長船町に組み込まれ、現在は瀬戸内市の一地区となっています。

吉井川堤防へ

福岡の市跡から吉井川の堤防へ上がりました。
吉井川は中国山地を源流とし、岡山県の東部を流れる川です。
この吉井川の河川敷には福岡城があったとされています。

福岡城は備前福岡の支配の拠点として置かれた城で、その重要性から中世にはこの城を巡って播磨の赤松氏と備前の山名氏との間で幾度となく戦いが繰り広げられました。特に、文明15(1483)年に赤松方の浦上氏の属城になっていた福岡城を山名氏が攻撃した戦いは「福岡合戦」と呼ばれています。
その後、先述の水害によって城郭の大半が吉井川の川底に沈んでしまったために廃城となりました。現在、残っているのは天守部分とされ、大半の遺構は吉井川の中にあると言われています。

福岡城跡

福岡城があったとされる現地に行ってみると、きれいな芝生が広がり…って、

ゴルフ場やん!?

城があったのは写真中央の森の辺りとされていますが、完全にゴルフ場の敷地となっているので近づけません。
残念ですが、仕方ありませんので、長船駅へ戻ることにしました。

黒田家所縁の町として備前福岡を紹介しましたが、かつて栄え、消えていった中世都市として見てもなかなか興味深い町です。
大河ドラマ「軍師官兵衛」をご覧の方々、姫路から一歩足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

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A:長船駅
B:妙興寺
C:火の見櫓
D:福岡の市跡
E:福岡城跡(堤防から望む)


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