せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

塩の街~大塩を歩いて(前編)

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風が爽やかな季節になってきましたが、皆様方におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
山陽沿線歴史部の内膳正です。

今回は大塩を歩いてみました。

大塩天満宮

山陽電車の大塩駅を降りると、早速南側には立派な社殿がそびえているのが見えます。
こちらは大塩天満宮
大塩ではかなり大きな神社で、秋祭りの毛獅子の舞が知られています。
10月14日と15日には屋台の練り合わせが行われ、牛谷丁・宮本丁・中之丁・東之丁・北脇丁・西浜丁・西之丁・小林丁の8地区から毛獅子が登場します。長い毛を振り回しての勇壮な舞はかなりの迫力とのこと。この連休は是非とも見に行きたいですね。

エスコート10月号

山陽沿線の秋祭りの情報は駅などで配布されているエスコート10月号に載っています。

大鳥居

大塩天満宮は昌泰4(901)年、太宰府へ左遷される途中の菅原道真がこの地にあった寺院に霊鏡を奉納したことを由緒としています。中世、戦乱を避けるために霊鏡を近くの山に埋めたそうなのですが、後に埋めた場所がわからなくなったために山全体を天神山と名付けて社殿を建て、道真公を祭るようになったとのこと。昔のこととはいえ、何だかのんびりした由緒ですね。現在の神社は江戸時代に天神山の麓から移転したのち、平成10(1998)年に都市計画道路の建設によって今の場所へ移転したものです。

塩田跡

天満宮の前には空地が広がっていました。
こちらは塩田の跡です。
大塩はその名の通り製塩業が盛んな土地で、山陽電車の線路の浜側には広大な塩田が広がっていました。
大塩の製塩業の歴史は非常に古く瀬戸内海沿岸では最古とも言われます。古代には汐崎塩崎と呼ばれ、中世には荘園の名前や村名で「大塩」 と呼ばれるようになりました。江戸時代には瀬戸内でも有数の産地となり、姫路藩一の製塩地として栄えたと言われています。
しかし、戦後にイオン膜法による工業製塩が開始されるとこうした塩田は急速に姿を消していきました。
今では、一部が住宅地や学校になったりしたものの、多くはこうした空地で残っています。
しかし、大塩では製塩業で栄えた風情を今も感じることができます。次回は山陽電車の北側に向かい、製塩業で栄えた街並みを歩いてみたいと思います。

ということで、次回に続きます。

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A:山陽電車大塩駅
B:大塩天満宮


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