せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨が見た戦争~加古川飛行場跡を歩いて(後編)

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こんにちは、内膳正です。
前回に引き続き、加古川飛行場の跡を歩いてみたいと思います。

改めて飛行場跡

前回訪れた商業施設の南側から飛行場跡を望みました。
何やら人工的にカーブした道路が続いています。これは飛行場の痕跡か?と思ったのですが、この道路は飛行場が撤去された後に作られたもののようです。

道標

飛行場を後にし北東に向かって歩いていると、旧浜国沿いで街並みに埋もれるように古い道標が佇んでいるのを見つけました。ちょっと寄り道してみることにしましょう。

白旗観音寺

道標が示す先にあったのは立派な寺院。
白旗観音寺というそうです。
小さなお寺ですが、延喜16(917)年の建立という非常に古い歴史を持った寺院で、古くから航海の安全を祈願するお寺として知られていたそうです。とある高砂の浦人が「白布をもって航海の旗印とせよ」という観音様のお告げに従って航海に出たところ、荒天に遭わなかったという伝説があり、高砂だけでなく周辺地域の人がそろって白旗を掲げて船出するようになったことから、「白旗観音寺」と呼ばれるようになったとのこと。

絵馬堂

境内には小さな絵馬堂がありました。中に入ると、明治から現代にかけて、様々な船が安全を祈願した絵馬が所せましと奉納されていました。中には戦時中に奉納された軍の艦艇のものもあります。

浜の宮公園

白旗観音寺から旧浜国をさらに東に向かうと、浜の宮公園に着きました。
立派な松の木が鬱蒼と茂り、蝉しぐれが降り注いでいます。
この松林、かつては海岸線にあったそうで、古くは「加古の松原」と呼ばれていたと言われています。

兵舎の跡

松林の中にはコンクリート製の基礎が残っていました。
加古川飛行場に置かれた軍航空通信学校尾上教育隊の兵舎の跡です。
この兵舎は昭和17年(1942)年にこの地に設けられ、多いときには1,500人もの兵士が駐屯していました。ここで暮らしていた兵士たちが、先ほど訪れた加古川飛行場から旅立っていったのです。戦後、木造の兵舎は中学校の校舎として使われていたそうですが、統廃合による移転で取り壊されしまいました。今は基礎だけが保存されています。

兵舎の門柱

近くには兵舎の門柱が転がっていました。
明るい夏の日差しが降り注ぎ、映画のワンシーンのようですね。
隣接する市民プールから子供たちの楽しそうな声が聞こえ、この地が悲惨な戦争の舞台だったことが嘘のようです。この平和を、いつまでも守っていきたいと思いつつ浜の宮公園を後にし、浜の宮駅へ向かうこととしました。

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A:山陽電車尾上の松駅
B:引込線予定地の分岐
C:引込線予定地の終点
D:飛行場跡の商業施設

E:飛行場跡の工業地帯
F:白旗観音寺

G:浜の宮公園
H:山陽電車浜の宮駅 


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