楽しいむ〜さん一家

【廃線跡】国鉄鷹取駅南専用線を歩く

投稿日:


む~パパ、かつて東須磨に住んでいたので鷹取駅から南へ伸びる引込線の存在は知っていました。特に浜側の道路は踏切が2か所あり、一度も貨車の通過シーンを見たことはないのですが子供心にワクワクしたものです。廃止になって40年、廃線跡はどうなっているのでしょうか。

1974~1978年の航空写真より。専用線は鷹取駅の少し西から分岐し、国道2号線をまたいだところで二股に分かれ、それぞれ石油貯蔵施設に伸びていました。写真で示した山陽電車の線路は東須磨~月見山間です。名門国鉄鷹取工場も今はありません。(出典:国土地理院)
前掲の航空写真で山陽本線から分岐していた部分。当時どうなっていたか記憶が定かではないのですが、現在でもスッパリ切られているのが分かります。ここから築堤となって地平に降りてきたものでしょう。写真右側が鷹取駅方向。
分岐した線路は右へカーブし南へ向かいます。道路との交差部。「C」の看板がある部分が廃線跡。かつての踏切が道路より少し高くなっているのが分かります。
この元踏切から南側の廃線跡を見ると、カーブに沿って細長いマンションが建っています。マンションも微妙にカーブしているのが面白いですね。いかにも「廃線跡」です。
元の踏切部分が盛り上がった道路。廃線時に平坦にすれば良さそうなものですが・・・。ちょっとした地形の変化が鉄道の痕跡を今に伝えています。
この踏切跡の近くに「関西ノート」がありました。神戸っ子なら小学生の時にみんな使ったあの「神戸ノート」は、ここで作られているんですね!ちなみにむ~パパのときはB5版でしたが、む~さんやた~さんはA4版を使っていました。教科別の色や写真に使われた神戸の風景、未だに内輪で盛り上がる話の種になっています。
国道2号線との交差部。写真は南側から撮影。横断歩道部分が廃線跡。線路敷地の幅で建物が建っています。上を走るのは阪神高速道路。
航空写真で二股に分かれているところ。左側すなわち東側の廃線跡はそのまま歩道となって続きますが、西側は建物が建っていて分かりにくくなっています。
ここに来て、まさしく「鉄道用地」らしい細長い空き地が残っていました。この先は不自然に広い歩道となっています。
かつて線路は道路を渡って貯蔵施設へ延びていました。タンク貨車が行列していたはずです。
西側のもう1本はパチンコ店などが建ち線路跡に沿って歩くことが難しいのですが、踏切の跡が盛り上がった道路になって残っていたりして、探索すると面白いものです。

いかがでしたか?廃線跡探索はこれからも続きます。

【東須磨】鷹取工場で整備されたSLたち②~太子山公園のD51

投稿日:


東須磨駅も最寄りだった旧国鉄鷹取工場で整備された保存機関車。今回は第2回として太子山公園(兵庫県太子町)のD51を紹介します。

JR網干駅より北へ約2㎞。太子町役場にほど近い太子山公園。網干(山陽網干駅より南側)と播磨新宮を結んだ播電鉄道が遊園地を経営していた場所です。近隣には同鉄道の車庫跡があり、ピットの跡が残されているそうですが、それはまたの機会に取材するとして・・・。この公園にD51が保存されています。
立派な屋根の下で保存されるD51 345号。
4つの動輪が「D」の証。定期的に手入れされているようで、今にも走り出しそうです。
キャブ(運転室)。丸い旋回窓が取り付けられているところから見て、厳しい冬を越してきた機関車であることが分かります。そう、この345号機は1940(昭和15)年に日立製作所(山口県)で製造され仙台に配置された後、戦後は主に北海道で活躍した機関車なのです。1976(昭和51)年、追分で廃車となり、保存のため鷹取工場で整備されました。
鷹取工場構内で。恐らく同工場に入場したのは初めてではないでしょうか。撮影日時不明ですが、廃車・保存時期から見て1976(昭和51)年と思われます。

鷹取機関区に隣接する留置線で。短い排煙板(デフレクタ)や装備から北国のD51であることが分かりますが、縁もゆかりもない太子町に保存されたとはいえ現在も大切にされており、幸せな余生を送っていると思われます。

国鉄マンの手により美しく整備され送り出されたSLたち。現在の姿を追います。

【東須磨】鷹取工場で整備されたSLたち①~播磨中央公園のC56

投稿日:



先日、このようなニュースが舞い込みました。

播磨中央公園のSL、大井川鐵道に譲渡へ「ファンの思い尊重する最善策」|北播|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

SL「C56形」搬入 45年間兵庫の公園に展示 解体予定が大井川鉄道に|あなたの静岡新聞 (at-s.com)

加東市の播磨中央公園に保存されていたC56型蒸気機関車。痛みがひどく解体寸前だったものが大井川鐡道(静岡県)に引き取られたというお話です。

今回静岡へ行った播磨中央公園のC56 135号機。バック運転にも適した切り欠きのある炭水車がC56の特徴です。(撮影 2021.7.4)

写真でも分かりますが、残念ながら全くの放置状態。SLが現役を引退する時期にブームが巻き起こり、全国各地で保存されたものの1両ですがSL自体が人々の記憶から薄れる中、保存への関心もなくなり、アスベスト問題もあってスクラップになることが決まっていました。そもそもこのC56は現役時代兵庫県で走ったことはなく、九州や中国地方で活躍し1974年、鹿児島で最後を迎えました。滝野町文化会館に保存されたのは1975年2月のことです。

実は、現役を引退した蒸気機関車が公園などに保存される前、当時の国鉄工場で美しく整備されてから送り出されています。このC56 135号機は須磨区にあった鷹取工場で最後に整備されました。多くの職員が山陽電車を利用していた沿線ゆかりの国鉄工場でもあり、整備当時の写真をここで公開することとします。(以下1975年撮影)
鷹取工場構内で整備が完了したC56 135号機。まだナンバープレートが付いていません。
ナンバープレートが付いたC56 135号機。
カラー写真もありました。この状態で滝野町へ運ばれました。

新天地でのC56135号復活を祈ります。クリックにもご協力を!
にほんブログ村 鉄道ブログ 関西の鉄道へ にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 兵庫県情報へ
にほんブログ村

【神戸・うつりかわる町とくらし展】山陽電車の姿もあります。

投稿日:



現在開催中の神戸市埋蔵文化財センター企画展「神戸 うつりかわる町とくらし~昭和ノスタルジー~」に行ってみました。恐らく山陽電車の何かもあるはず。期待は膨らみます。
神戸市営地下鉄西神中央駅からほど近い西神中央公園内に「神戸市埋蔵文化財センター」があります。文字通り常設されているのは埋蔵文化財です。

昭和ノスタルジーと副題が付いていますが、最初に目に飛び込んでくるのが「神戸市大水害絵巻」。1938(昭和13)年にあった大水害の様子を当時記録したもので、氾濫した河川と被害の様子がよく分かります。む~パパ、三ノ宮駅前が川のようになり市電やバスが流されている写真を見たことがありますが、山陽沿線も大きな被害を受けた様子。

須磨区付近。中央下の鉄道工場は鉄道省(のちの国鉄)鷹取工場。茶色の濁流が流れる川は右が妙法寺川、左が天井川。よく見ると東須磨の権現さん(證誠神社・・・む~パパの氏神さまです)が描かれています。権現さんの右上にあるのは山陽電車の板宿駅でしょう。

こちらは絵巻の左端。濁流は須磨寺方向から流れてきています。駅は須磨寺駅か須磨駅と思われます。ポールを付けた1両の路面電車のような車両が描かれていますが、これが当時の山陽電車の姿でした。

1919(大正8)年の神戸市街地図も数点。山陽電車は当時兵庫電気軌道。明石まで開業した2年後の地図で、明石~姫路間はまだ開通していません。この地図によると兵庫駅起点の次の「大開通」、権現さんの裏にあった「大手」、「一の谷」「敦盛塚」「東塩屋」など、現在は無くなった駅がたくさんあります。

神戸市電。1971(昭和46)年に全線廃止。真ん中の模型は700形ロマンスカー。1935(昭和10)年に長田工場で製造され「東洋一の市電」の不動のものとした名車です。

神戸の過去の鉄道の一つ、臨港線。廃線跡取材も進めていますので、またご紹介しましょう。

この他にも山陽電車兵庫駅や地上時代の板宿駅など、貴重な写真や地図資料が数多くあり、なかなか見ごたえがありました。


昭和の給食。む~パパ世代の間で今でも話題になる「クジラ肉のノルウェー風」!

3月7日(日)まで。入場無料。月曜日休館。

おススメです。ぜひどうぞ。クリックにもご協力ください。
にほんブログ村 鉄道ブログ 関西の鉄道へ にほんブログ村 鉄道ブログへ にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 兵庫県情報へ
にほんブログ村

【8月4日は阪神の日】少し昔の阪神電車

投稿日:



8月4日は「阪神の日」。ちょっと昔と言いつつ30年前の阪神電車の写真を引っ張り出してきました。む~パパが高校生の時に撮ったもの。いずれも山陽電車線内を走る姿です。

7001・7101形。日本で初めて営業用車両として実用化されたサイリスタ・チョッパ制御車の第1編成です。7101-7001-7002-7940-7840の5両固定編成でデビューしましたが、7102を加え4連で他の編成と組むようになりました。のち制御器を交換し2000系へ。7102号は2202号となりましたが、阪神大震災で被災し廃車となりました。
(月見山~須磨寺 1988.5.3)

7601・7701形。3601・3701形を7001・7101形と同じチョッパ制御車へ改造し改番したもの。丸みを帯びた阪神初期の赤胴車スタイルが懐かしいです。写真は地上時代の板宿駅。(板宿 1988.5.3)

7801・7901形。1963(昭和38)年に登場したR車と呼ばれる経済車。切妻の正面や裾のRを省略した簡易な設計が特徴でした。一時期は阪神電車で最大勢力を誇りました。
(月見山~須磨寺 1989.4)

須磨浦公園の桜と7801・7901形。7835号以降は車体裾のRが戻り、赤胴車としては初めて両開き扉を採用しました。7835~7839は登場時ラインデリアを装備しており、低くスマートな車体でした。(須磨~須磨浦公園 1989.4)

7801・7901形のうち7840号以降は7001・7101形と同一の車体で当初から冷房を装備していました。深い屋根が特徴で、のち方向幕が装備されています。
(東須磨~月見山 1981年)

地下化工事の進む板宿~西代間の仮線を走る3000系。3000系は7801・7901・3521形を界磁チョッパ制御車に改造したもの。外観は7801・7901形時代と同一で、3521形後期型から改造された車両は前面の雨どいが車体に埋め込まれていました。
(西代~板宿 1988.6.4)

いかがでしたか?一昔前の阪神電車は、なかなか個性的な面々が揃っており撮影も面白かったです。現在は洗練され都会的な電車になっていますが、かつてのどこか庶民的な魅力を持った阪神電車も懐かしく思い出されます。

クリックにもご協力を!
にほんブログ村 鉄道ブログ 関西の鉄道へ にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 兵庫県情報へ
にほんブログ村

オフシーズンの須磨離宮公園

投稿日:



雪がちらつく寒波襲来の日。昼からは晴れてきたので、ふと須磨離宮公園に行ってみました。

さすがに訪れる人は極めて少なく(全くいないというわけではありませんが)、ほぼ貸切状態です。寒いということさえなければ、非常に贅沢です。自分のためだけに噴水が出ているような気分になれますよ!

表の椅子に座ろうという人もいません。冬らしい清浄な空気が身を引き締めてくれます。この雰囲気で何かこう、写真家になったような気がしますが、あくまで気のせいです。

その中で温室だけが春の雰囲気。湿度が高く、暖かい室内には花が咲いています。空いているのを良いことに、ここでボーッと過ごすのも贅沢です。

外に出てみると、何か赤いものが。

梅、咲いてますやん。

白いほうも。

まだまだ寒い冬と思っていましたが、春の足音も少しずつ聞こえていますね。

寒いからといって家に閉じこもっていてはもったいないです。クリックにもご協力ください!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 兵庫県情報へ にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

【発掘】山陽電車に乗り入れる阪急電車

投稿日:



神戸高速鉄道が開業した1968年から1998年まで30年に渡って続いた、阪急電鉄と山陽電車の相互乗り入れ。む~パパ、小学校の時から撮っていた写真が出てきましたので、少し公開したいと思います。小学生ゆえ撮影技術が未熟なのはご容赦を・・・。山陽電車の線内を走る阪急電車の姿です。

「ポートピア81」のヘッドマークが付いていますので、1981年であることは間違いないとして、東須磨駅に進入する阪急梅田行き特急。今は亡き5200系です。阪急初の冷房車で、深い屋根が印象的でした。当時、三宮で連結・解放する運用は6000・7000系に替わっていましたが、昼間は5200系だけでなく、3000系や5100系も須磨浦まで乗り入れていました。

上の写真の続きです。5200系が東須磨駅に到着しています。隣には山陽電車の特急待ちでしょうか?須磨浦公園行きの阪急特急が停車しています。こちらは当時最新鋭の7000系7001号の編成。6両編成で山陽電車に乗り入れていた期間は短く、ほどなく8両編成となり新開地以西には乗り入れなくなりました。

東須磨~月見山間を走る須磨浦公園行きの阪急特急。当時は現在のように貫通扉中央にヘッドマークを取り付けるための器具は無く、「ポートピア81」用に仮設の取り付け枠が設置されていました。写真の7003号の編成は登場直後は6両編成で山陽電車への乗り入れに使用されていましたが、こちらも後に8連化されています。現在は久しぶりの6両編成に戻り、今津線で活躍しています。

今津線で活躍する最近の7003号。山陽電車乗り入れ時代と同じ6両編成に戻っています。屋根部分が白く塗装されて久しいですが、む~パパ個人的に、マルーン一色時代のほうが好みではあります。

地下化工事が進む東須磨~板宿間を走る阪急6000系。1988年の撮影。6000系が山陽電車乗り入れに使用されるようになったのは1977(昭和52)年のこと。1998年の乗り入れ中止まで使用され、山陽電車線内ではお馴染みの存在でした。神戸線の6000系、乗り入れ中止後は宝塚線に転属したり、甲陽線や今津線でのワンマン運転に用いられたりと仲間はバラバラとなり、神戸本線でその姿を見ることも無くなりました。

地下化工事で仮線となった西代~板宿間を走る阪急7000系(1988年)。バブル絶頂期の当時、阪急電車で増備が進んだ7000系の増結用車です。新製直後にはなぜか山陽電車への乗り入れに多用されていました。

須磨浦公園駅で並ぶ阪急と阪神の特急。む~パパ的には、つい昨日のことのように思えるのですが、この光景が見られなくなって17年。若いファンの方には想像も出来ないことなのかと思うと、「オッサンになったな~」と感慨にふけってしまいます。

「ちょっと懐かしい」はずが実は「かなり昔の」光景になってしまいました・・・。
にほんブログ村 鉄道ブログ 関西の鉄道へ にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 兵庫県情報へ
にほんブログ村

平日ウォーク「晩秋の奥須磨でのじぎく散歩」

投稿日:



山陽電車では「山陽ハイキング」はじめ、さまざまなハイキングやウォーキングを企画しています。そのうち「平日ウォーク」は距離が比較的短く平坦なコースで気軽に楽しめるものとして、すでに10年近い歴史を持っています。今回「晩秋の奥須磨~紅葉とのじぎく散歩~」を歩いてみました。ちなみに「平日ウォーク」は夏場の7・8月を除く年10回、いずれも水曜日の開催です。

さて、朝10時。スタート地点の東須磨公園。すでに大勢の参加者でにぎわっています。受付を済ませるといよいよ出発!

山陽電車に沿って板宿まで歩いたあと、神戸三木線(通称:三木街道)に沿って北上します。狭い車道に出ると「那須与一の墓」があります。那須与一は源氏の武将で、屋島の戦いで扇の的を射た人物として有名。実は墓所と言われる場所は京都をはじめ複数あり、そもそも那須与一が実在したと立証されているわけではない(らしい)ので、「そういうこと」にしておいたほうが良いでしょう。

さらに北上すると「妙法寺」に着きます。奈良時代に創建された寺ですが、平清盛の時代に隆盛を極めました。このあたり、全体が妙法寺という名の集落ですが、寺域を示す字名も散見される歴史を感じる町です。

妙法寺から横尾団地に上がります。その途中、神戸市営地下鉄が一部地上を通る区間があります。シェルターで覆われていますので電車の姿は見えにくいですが・・・。地下鉄に乗っていると一瞬外が見える場所がありますが、それがここ。階段は横尾団地まで長く長く続いています。

横尾団地の中心部にある椿谷公園で昼食休憩。地元の方からニュータウンの植物についてお話がありました。この団地も開発されて40年近く。植えられた木々も大きく成長しています。

さて、休憩も終わり「よこお野路菊の丘」向かいましょう。

「よこお野路菊の丘」は横尾山の斜面に地元ボランティアさんの手によって整備されたもの。のじぎくは姫路の大塩から分けてもらったものとか。

すばらしいです!言葉にはできません!


明石大橋や淡路島が遠望できます。いや~、知られざる名所ですね~。

ここから高倉台を経て須磨寺にゴール。ちょっと肌寒い一日でしたが、のじぎくが満喫できただけでも満足でした。大塩が有名なのじぎくですが、横尾も良いですよ~。なお、25日くらいまでが見頃とのこと。まだまだ間に合います!
平日ウォークは今年はあと1回。12月3日です。高砂でキッコーマンの工場見学があります。是非ご参加ください!

平日ウォークへ参加してみようと思われた方はクリックを!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 兵庫県情報へ
にほんブログ村

月見山から山の手を(後編)

投稿日:



傾斜15%の坂を下ったむ~さん一家、さらに東へ。大手町と呼ばれる東須磨駅山手を散歩していきます。このあたりも昔からの住宅地ですが、月見山とは違いやや庶民的な空気と言えます。狭い道がくねくねと続いています。現在は板宿と東須磨を結ぶ太い車道が通じており、多くの古い家が取り壊されて雰囲気が変わってしまいましたが、以前はクルマでは入れない地域でもありました。

これは平家物語ゆかりの勝福寺の門前で見かけた民家。玄関周りの一部がいわゆる洋館のような感じになっています。別棟になっていたりする場合もありますが、多くは和風建築に付属して一部が洋風になっていたりします。この手の建物は戦前に流行したもので、のち建物の中に取り込まれ「洋室」となっていくものです。む~パパも知人の家がこのスタイルをしており、その部屋だけ鍵も洋風だったことを思い出しました。取り壊す前に写真を撮っておけば良かったと・・・。

勝福寺から南下する道はかつて山陽電車の大手踏切道に通じていました。

鉄製の電柱です。電車の鉄柱みたいな形ですね。

・大手踏切道跡(写真の突き当たりのところ)
かつて踏切の東側上り線にプラットホームが残っていました。これは大手駅の跡で1943(昭和18)年ごろまで使われていたそうです。山陽電車の地下化工事まで長い間残っていましたが、今ではその痕跡もありません。

・大手踏切道と旧大手駅プラットホーム(1990年ごろ)

・地上時代の板宿駅を出て大手踏切道を通過する阪神電車(1990年ごろ)
写真に写っている踏切の南側の森、「須磨の権現さん」として親しまれている證誠(しょうせい)神社です。実はむ~パパの氏神さまです。はい。この神社の真北、線路を挟んだ住宅地に妙な神社を見つけました。

・住宅地に突如出現する異空間。ただし背面です。

・こちらが間違いなく正面。どうやって参拝するのでしょう?
大物主とかいくつかの石に彫られていまして、一応神社らしいのですが北側の道路に接した部分に入口がありません。基本的に神社は南面しているものがほとんどなのですが、正面と思われる南側の鳥居がすぐに住宅に接しており、とても正面から拝める状況にないです。以前はここも権現さんの敷地だったのか、土地の神様として祭られていたものを集めたのかよく分かりませんが、特異な形状であることは確かでしょう。このあたり一帯はかなり昔から開けていて集落も形成されていましたので、何らかの経緯はあるのでしょうね。
子供たちを公園で遊ばせながら、のどが渇いたむ~パパ、缶ビールで休憩、休憩・・・。

A:須磨裕厚病院
B:旧大手踏切道へ向かう鉄柱のある坂道
C:大手踏切道跡と旧大手駅ホームがあった場所
D:妙な神社
E:證誠(しょうせい)神社

大きな地図で見る

東須磨から板宿へ。山陽電車で路上観察!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

月見山から山の手を(前編)

投稿日:



弥刀の住んでいる月見山も生活感から自由になれない下町だが、少し山手に行けば皇族の離宮だった広い公園がある。月見山という地名も平安時代に都から流されてきた貴族が月見をしたというのが由来だそうだ。(森田季節「ともだち同盟」より)」

「ともだち同盟」については”聖地巡礼”報告をブログに書いている方が多いのと、ネタバレになるのでこれ以上詳しくは書きません。ただ山陽電車が物語の中心に登場する数少ない小説(少々特異な世界観が展開しますが・・・)とは言えるでしょう。と今回な~んの脈絡もなく、む~さん一家はその月見山にやって来ました。「ともだち同盟」主人公の一人、大神弥刀は離宮公園のすぐ下に住んでいるそうです。でもまあ、そちらには行きません。

せっかく来たのでむ~さんの写真を撮ります。月見山駅前の踏切を挟んで西側には1948(昭和23)年まで使われていた旧上りホームが残っています。昔は沿線各所にこんな遺構がありましたが、かなり減ってきました。何気なく乗っていると見過ごしてしまうものだけに、まめに記録しておくことも必要ですね。
 
これが旧ホームです。白線(点線というべきでしょうか)が残っています。そもそもホームの白線って一体いつごろから日本の鉄道駅にこのスタイルで存在するものなのでしょうか?1948年に使われなくなったホームですでにあるということは、たぶん戦前からあったものなのでしょうね。また調べておきましょう。高さが今より低いですが、当時は路面電車然とした車両を使用しており、逆に現在のような規格の車両がこの区間に入ってくるのも同じ1948年ですから、大型車の導入に合わせてホームを移設したと考えるのが自然でしょう。

駅の北側には昔ながらの住宅地が広がっています。道が狭いので車で迷い込むと大変なことになりそう。駅のすぐ東側には月見山駅のホーム下をくぐる地下道の入口がぽっかり・・・。なかなかシュールな風景でしょ。東へ進み天井川を渡ると須磨離宮公園の植物園側入口が近いのですが、今回は行きません。そして、またしても寄り道・・・。

三菱重工さんの社宅があり、高台のビューポイントです。ここから下側に出る怪しげな地下道というかトンネルがあったはず、と記憶を頼りに行ってみると・・・。

あっ、あれれ。トンネルそのものはまだあるようですが、入口は見事に塞がれていて通行不能でした。ちなみにこのトンネル、途中で曲がっていたので出口が見えない上、急な坂になっていました。(社宅内は私有地です。みだりに立ち入らないように・・・。)

三菱重工社宅の向かい側、旧須磨高校の脇から山裾を辿るルートを。若木町・上細沢町のあたりで、北側を向くと坂ばかり。平坦な地で育ったむ~ママは「こんなところで生活をするなんて信じられん」そうですが。そのまま歩くと以前は東須磨駅からまっすぐ上がってくる道に突き当たっていたのですが、現在途中が開発されて住宅地になり、旧道と団地内道路が不自然な形でつながっています。

ここに傾斜15%の急坂が待っています。写真ではあまり実感が湧きませんが・・・。登り詰めた先に昔から須磨裕厚病院があり、平屋の建家がレトロな雰囲気を漂わせていますが、ここから海側を振り返ると、いかにも坂の街神戸らしい風景が広がります。東須磨でもこんな風景が見られることは、このあたりにお住まいの方はともかく、あまり知られていないような気がします。
ここからさらに上がると高尾台に通じる道があります。戻ってくるのが大変なので今日はここで折り返します。

急坂の途中には小さな谷もあります。以前、この工事用フェンスの向こう側は木造アパートがそれこそ谷底に至るまで建っていました。この道路にはアパートの2階部分が面しており、階段で1階部分に降りると下段に建っているアパートの2階部分があるという感じです。長田の山手に行けばまだまだ残っていそうな風景ですが、東須磨の方はきれいに取り払われ、ただの谷に戻っていました。む~パパ、密かに「ラピュタの谷(なんのこっちゃ)」と呼んでいたので、ちょっと残念・・・。

この坂を下りたあとは旧大手踏切道付近へ向かいます。(続く)

A:月見山駅
B:月見山地下道へ続く道
C:三菱社宅入口
D:上細沢町へ向かう坂道
E:小さな谷
F:須磨裕厚病院


大きな地図で見る

月見山から東須磨へ。山陽電車で小さな沿線散歩をお楽しみください。
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村