楽しいむ〜さん一家

日本で最も有名になった(?)山陽バス

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かつて山陽バスで活躍した車両たち。今や北海道から鹿児島まで全国に散らばって第2の人生を歩んでいますが、その中でも数奇な運命をたどった車両を紹介します。山陽バスでは廃車後長野県の川中島バスに移った車両がたくさんいますが、そのうちの1両が川中島バス80周年記念の「メモリアルバス1号」として同社の旧塗装をまとい最後のおつとめをしていました。(※写真はむ~パパがお友達からいただいたものです。)

・いすゞK‐CQA500(川崎車体)1983年式 長野市内
当時山陽バスは路線の拡大、旅客の急増に対応した高性能のバスを多数導入していました。この車両は当時標準であった路線バスの仕様を大きく上回るもので、高出力エンジン、エアサスペンションを採用しています。同じ路線を走っていた神戸市バスに比べ格段の「豪華仕様」。そのためか中古車として長野に大挙して移ったあとも高性能を生かして坂道の多い郊外路線で威力を発揮していました。色が塗り替わって元の面影は無くても、当時この型式を導入していたバス会社が珍しかったこともあって、山陽バスOBであることが容易に判別できました。
屋根の丸い車体は一昔前のデザインで、モノコックボディと呼ばれるもの。外観はおとなしい路線バスですね。

・山陽バス時代の姿(同型車)
元々は山陽バスの旧塗装で登場していますが、黄色い現塗装になり、川中島バス標準のアルピコ塗装になり、最後に川中島バス旧塗装となったわけで、これが3度目のお色直し。4回も違ったカラーリングをまとったことになります。
さてさて、このメモリアルバス、川中島バスではイベントの目玉として活躍し、多くのファンを集めました。ある意味、全国で最も有名になった(?)山陽バスと言えるでしょう。模型、イラストなど多くの商品のモデルにもなり、バスに人格があるなら非常に驚いているに違いありません。



さてさて、一連のイベントの後、川中島バスでも引退してスクラップになるかと思いきや、貴重なモノコックバスの生き残りとして廃車後に宮城県の愛好家団体に引き取られました。その後も川中島バス塗装のまま各地のイベントに登場していましたが、実はあの大震災の後、消息が分からなくなってしまいました。まだどこかに生きているのなら、かつての山陽バス塗装(もちろん旧塗装)に戻った姿を垂水の地で見てみたいものだと思いますが・・・、叶わぬ夢なのかもしれませんね。

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月見山から山の手を(後編)

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傾斜15%の坂を下ったむ~さん一家、さらに東へ。大手町と呼ばれる東須磨駅山手を散歩していきます。このあたりも昔からの住宅地ですが、月見山とは違いやや庶民的な空気と言えます。狭い道がくねくねと続いています。現在は板宿と東須磨を結ぶ太い車道が通じており、多くの古い家が取り壊されて雰囲気が変わってしまいましたが、以前はクルマでは入れない地域でもありました。

これは平家物語ゆかりの勝福寺の門前で見かけた民家。玄関周りの一部がいわゆる洋館のような感じになっています。別棟になっていたりする場合もありますが、多くは和風建築に付属して一部が洋風になっていたりします。この手の建物は戦前に流行したもので、のち建物の中に取り込まれ「洋室」となっていくものです。む~パパも知人の家がこのスタイルをしており、その部屋だけ鍵も洋風だったことを思い出しました。取り壊す前に写真を撮っておけば良かったと・・・。

勝福寺から南下する道はかつて山陽電車の大手踏切道に通じていました。

鉄製の電柱です。電車の鉄柱みたいな形ですね。

・大手踏切道跡(写真の突き当たりのところ)
かつて踏切の東側上り線にプラットホームが残っていました。これは大手駅の跡で1943(昭和18)年ごろまで使われていたそうです。山陽電車の地下化工事まで長い間残っていましたが、今ではその痕跡もありません。

・大手踏切道と旧大手駅プラットホーム(1990年ごろ)

・地上時代の板宿駅を出て大手踏切道を通過する阪神電車(1990年ごろ)
写真に写っている踏切の南側の森、「須磨の権現さん」として親しまれている證誠(しょうせい)神社です。実はむ~パパの氏神さまです。はい。この神社の真北、線路を挟んだ住宅地に妙な神社を見つけました。

・住宅地に突如出現する異空間。ただし背面です。

・こちらが間違いなく正面。どうやって参拝するのでしょう?
大物主とかいくつかの石に彫られていまして、一応神社らしいのですが北側の道路に接した部分に入口がありません。基本的に神社は南面しているものがほとんどなのですが、正面と思われる南側の鳥居がすぐに住宅に接しており、とても正面から拝める状況にないです。以前はここも権現さんの敷地だったのか、土地の神様として祭られていたものを集めたのかよく分かりませんが、特異な形状であることは確かでしょう。このあたり一帯はかなり昔から開けていて集落も形成されていましたので、何らかの経緯はあるのでしょうね。
子供たちを公園で遊ばせながら、のどが渇いたむ~パパ、缶ビールで休憩、休憩・・・。


A:須磨裕厚病院
B:旧大手踏切道へ向かう鉄柱のある坂道
C:大手踏切道跡と旧大手駅ホームがあった場所
D:妙な神社
E:證誠(しょうせい)神社

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東須磨から板宿へ。山陽電車で路上観察!
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月見山から山の手を(前編)

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弥刀の住んでいる月見山も生活感から自由になれない下町だが、少し山手に行けば皇族の離宮だった広い公園がある。月見山という地名も平安時代に都から流されてきた貴族が月見をしたというのが由来だそうだ。(森田季節「ともだち同盟」より)」

「ともだち同盟」については”聖地巡礼”報告をブログに書いている方が多いのと、ネタバレになるのでこれ以上詳しくは書きません。ただ山陽電車が物語の中心に登場する数少ない小説(少々特異な世界観が展開しますが・・・)とは言えるでしょう。と今回な~んの脈絡もなく、む~さん一家はその月見山にやって来ました。「ともだち同盟」主人公の一人、大神弥刀は離宮公園のすぐ下に住んでいるそうです。でもまあ、そちらには行きません。

せっかく来たのでむ~さんの写真を撮ります。月見山駅前の踏切を挟んで西側には1948(昭和23)年まで使われていた旧上りホームが残っています。昔は沿線各所にこんな遺構がありましたが、かなり減ってきました。何気なく乗っていると見過ごしてしまうものだけに、まめに記録しておくことも必要ですね。
 
これが旧ホームです。白線(点線というべきでしょうか)が残っています。そもそもホームの白線って一体いつごろから日本の鉄道駅にこのスタイルで存在するものなのでしょうか?1948年に使われなくなったホームですでにあるということは、たぶん戦前からあったものなのでしょうね。また調べておきましょう。高さが今より低いですが、当時は路面電車然とした車両を使用しており、逆に現在のような規格の車両がこの区間に入ってくるのも同じ1948年ですから、大型車の導入に合わせてホームを移設したと考えるのが自然でしょう。

駅の北側には昔ながらの住宅地が広がっています。道が狭いので車で迷い込むと大変なことになりそう。駅のすぐ東側には月見山駅のホーム下をくぐる地下道の入口がぽっかり・・・。なかなかシュールな風景でしょ。東へ進み天井川を渡ると須磨離宮公園の植物園側入口が近いのですが、今回は行きません。そして、またしても寄り道・・・。

三菱重工さんの社宅があり、高台のビューポイントです。ここから下側に出る怪しげな地下道というかトンネルがあったはず、と記憶を頼りに行ってみると・・・。

あっ、あれれ。トンネルそのものはまだあるようですが、入口は見事に塞がれていて通行不能でした。ちなみにこのトンネル、途中で曲がっていたので出口が見えない上、急な坂になっていました。(社宅内は私有地です。みだりに立ち入らないように・・・。)

三菱重工社宅の向かい側、旧須磨高校の脇から山裾を辿るルートを。若木町・上細沢町のあたりで、北側を向くと坂ばかり。平坦な地で育ったむ~ママは「こんなところで生活をするなんて信じられん」そうですが。そのまま歩くと以前は東須磨駅からまっすぐ上がってくる道に突き当たっていたのですが、現在途中が開発されて住宅地になり、旧道と団地内道路が不自然な形でつながっています。

ここに傾斜15%の急坂が待っています。写真ではあまり実感が湧きませんが・・・。登り詰めた先に昔から須磨裕厚病院があり、平屋の建家がレトロな雰囲気を漂わせていますが、ここから海側を振り返ると、いかにも坂の街神戸らしい風景が広がります。東須磨でもこんな風景が見られることは、このあたりにお住まいの方はともかく、あまり知られていないような気がします。
ここからさらに上がると高尾台に通じる道があります。戻ってくるのが大変なので今日はここで折り返します。

急坂の途中には小さな谷もあります。以前、この工事用フェンスの向こう側は木造アパートがそれこそ谷底に至るまで建っていました。この道路にはアパートの2階部分が面しており、階段で1階部分に降りると下段に建っているアパートの2階部分があるという感じです。長田の山手に行けばまだまだ残っていそうな風景ですが、東須磨の方はきれいに取り払われ、ただの谷に戻っていました。む~パパ、密かに「ラピュタの谷(なんのこっちゃ)」と呼んでいたので、ちょっと残念・・・。

この坂を下りたあとは旧大手踏切道付近へ向かいます。(続く)

A:月見山駅
B:月見山地下道へ続く道
C:三菱社宅入口
D:上細沢町へ向かう坂道
E:小さな谷
F:須磨裕厚病院


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月見山から東須磨へ。山陽電車で小さな沿線散歩をお楽しみください。
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鉄道模型と遊ぼうin青少年科学館

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ポートアイランドにある神戸市立青少年科学館で開催されている「鉄道模型と遊ぼう」。今年で第18回目を迎え、この季節のイベントとしてすっかり定着しました。今回もむ~パパ、む~さんとともに参戦!してきました。4階のメイン会場では鉄道模型の同好会による公開運転をしています。模型の線路を敷いたジオラマ(鉄道模型では「レイアウト」と言います。)に大人も子供もかぶりつき状態。その中でもむ~パパ、注目してしまったコーナーがあります。それは会場奥にあった「JORC」というクラブ。ここは大きな「Oゲージ」という鉄道模型を走らせているクラブです。「Oゲージ」ってどんな模型なのでしょう?

日本では鉄道模型と言えば「Nゲージ」のことを指す場合が多いです。縮尺150分の1(国際標準では160分の1。日本では新幹線だけ160分の1で作られています。)で線路幅が9㎜(「9=nine」の頭文字からNゲージって言うんですね。)の模型のことです。でもNゲージが普及する一昔前はHOゲージが盛んでした。これは実物を80分の1にしたもの(これも国際標準では87分の1です。新幹線も同様。)で線路幅は16.5㎜。大体Nゲージの倍の大きさです。この「HO」は「ハーフ」の「Oゲージ」という意味ですから、「Oゲージ」はHOゲージのさらに倍、縮尺45分の1の模型です。大っきいです。1両が40cm以上あります。青少年科学館のホールだから線路が敷けるのであって、余程の豪邸でもない限り部屋の中ではカーブが曲がれません。この大きな模型はHOゲージが普及する前、鉄道模型のスタンダードだったサイズで、日本の場合は住宅事情に合わせてどんどん模型が小さくなっていきました。元々小さいものを作るのって日本人の得意分野ですもんね。

さてさて、この「Oゲージ」の線路を走る阪神電車の姿を見かけました。これは阪神3501形。「神戸の電車ネクタイ」のお話で最後に写真をお見せした、あの車両です。この模型、実は50年以上前に作られた骨董品なんです。車体は紙で出来ています。模型を1から自分で作ってしまう人の間では「紙」で車体を作ってしまう技法はもう戦前から確立されたもので特に不思議でも何でもないのですが、普通の人は驚かれます。その具体的な技法はまたご紹介する機会もあるでしょうから省略しますが、50年以上前の作品が今も元気に活躍していることに驚きます。ただ、モーターなどの走行装置は交換されているそうで、半世紀前のものではないそうです。ちょっと残念・・・。

この模型に関して。機芸出版社発行の「鉄道模型趣味」という雑誌がありますが、その別冊として「電車工作集」という本が1963(昭和38)年に世に出ました。(写真は1983年に再販された最終版)。阪神電車の模型はこの「電車工作集」に掲載されたもので、元々は「鉄道模型趣味」に発表されたものなのです。なんと最初に載ったのは1960(昭和35)年7月号。つまり今から54年も前のこと。実際に作られたのはそれより前ということになります。この模型は冷房も付いておらずパンタグラフが前寄りに付いた登場時の姿を再現していますが、それは模型が作られたときに「まさにその姿だった」からにほかなりません。

1960年当時の製作記事。(電車工作集より)

電車は生まれてから廃車になるまで数十年間、同じ姿でいるとは限りません。むしろ時とともに冷房が付いたり、あちこち機械を交換したりと、姿形を少しずつ変えながら一生を過ごすのが普通です。この阪神3501形も先日の写真では冷房や行先方向幕が付いて、パンタグラフの位置も変わった最後の姿でした。そういう意味では、50年以上前の模型はそれだけ長い間存在すること以上に、模型とはいえ50年前の阪神電車の姿を目の当たりに出来る貴重な資料ということが出来るでしょう。もちろん、模型は現代でもあえて昔の姿で作るということが出来ますが、これは本当に50年前の阪神電車を見て作られたところに価値を感じます。いや~、素晴らしいことです。

特別に間近で撮らせてもらいました。当時の記事によると阪神電車から本物の塗料を分けてもらったとか。現在より上半分のクリーム色はピンクに近く、下半分のオレンジは赤に近い印象です。

さてさて、Oゲージはさすがに普通の方がお持ちになる模型ではないと思いますが、では「Nゲージで山陽電車の模型を走らせたい」と思われた方、残念ながら山陽電車の模型は普通には手に入りません。鉄道模型を取り扱う電器量販店なんかで売られているのは「新幹線」や「新快速」「阪急電車」で、最近は「阪神電車」や「神戸電鉄」まで現れ、相当マイナーな会社のマイナーな車両までどんどん模型化され販売されています。「山陽電車」はそこまでマイナーじゃない!と思いたいのですが、なぜか模型メーカーさんからは忘れられ続けていて、ファンとしては非常に悲しい~。せめて「直通特急」の5000系くらいはどこかのメーカーさん、作って売っちゃってくださいよ!む~パパ、1つくらいは買いますので。


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あ、「鉄道模型と遊ぼう」は11日もやってます。お出かけは山陽電車でどうぞ!
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廣峯神社と牛頭天王

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む~パパ、小説や漫画を読むと、いわゆる「聖地巡礼」をしたくなるタイプなのです。そう、これは5年前のお話。む~じじの本棚に司馬遼太郎「播磨灘物語」1・2巻があったので何気なく読んでいたら、

あれれ、終わらへんやん!

実は単にむ~じじが2巻で挫折して放置していただけ。実は4巻まであるという事実を知り、3・4巻を買う羽目に。おまけに継ぎ足したのは新装本だったのでム~パパの「播磨灘物語」は1・2巻と3・4巻で本の分厚さと字の大きさが違い、大河ドラマ「軍師官兵衛」の放映が決まって再読したら3巻以降、字の大きさと書体に慣れなくてしばらく読みにくかったり、と5年前と同じ状態に・・・。1・2巻を買い直す気にもならず現在に至っています。

だいぶ脱線しましたが、要するにそのとき無性に廣峯神社に行きたくなったので、む~さん一家、聖地巡礼しました!というお話なのです。

とりあえず廣峯神社の正面。5年前なのでむ~さん、めっちゃ小っさい。

室町時代築、神仏習合スタイルの本殿を裏手に回ると、丸い穴が並んでいます。これは九星に対応したもの。一体何をする穴かというと(姫路の人はよくご存じだとは思いますが)

右の札にお願いを書いて、自分の星の穴に入れるという単純明快なシステムのためのものだったのです。

はい、この通り。

で、この御幣(ごへい)をもらいます。
「あれ、色がおかしいのではないか?」そうです、気付かれましたか?む~さんが手を突っ込んでいるのは「五黄土星」。御幣は「一白水星」のものなんですね。実はこのとき年女だったむ~さんママが、主祭神である牛頭天王(ごずてんのう)にウシつながりで(あながちこじつけでもないらしい)やってみたもの。む~さん、手を突っ込んでいるだけで実は何もしていません。
その後、む~パパ、ご朱印をもらいました。

お寺で納経、神社では御朱印。最近、若い女性の間で流行っているらしいですね。

さて、この牛頭天王、現在はスサノオと習合していますが同じ神を祭る京都の八坂神社とどちらが本家かということで相当昔から揉めているようです。地元民としては瀬戸内海に面した播磨のほうが本家と思いたいところ。吉備真備が創建者だということですが、備後の素盞嗚神社から勧請したという話もあるようで、なかなか謎につつまれていますね~。

これが備後の素盞嗚神社(広島県福山市)です。茅の輪くぐり発祥の地ということです。スサノオ系では日本で唯一本地堂(本地仏を祭るやつです)が残っています。む~パパ、単に備後一ノ宮ということで何の予備知識もなく行ってみたのですが、ここと廣峯神社の関係は当時全く知りませんでした。

官兵衛ゆかりの廣峯神社に行ってみようと思われたら、クリック願います。
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神戸の電車ネクタイ

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正確にいつどこで売っていたのか記憶が曖昧なのですが、む~パパの手元に1本のネクタイがあります。たぶん1992年に神戸阪急がハーバーランドに開業したときに販売されていたもののはず。と言うのも自分で買ったのではなく、戴き物であるからでして・・・。

なにやら図柄と文字が見えますね。はい、何が描いてあるかよく分かりません。拡大しましょう。

こんな感じです。神戸の電車とそれぞれにちなむ地名がローマ字で散りばめられたもの。
阪急・阪神・神鉄・JR・神戸市営地下鉄・ポートライナー・六甲ロープウェイとともに、わが山陽電車が描かれています。地名は「sumaura(須磨浦)」です。いい感じですね~。精密なイラストではなく可愛くデザインされているので、仕事で締めていても違和感がありません。(本当はあるのかも知れません。自分だけ気付いていないってこと、よくあることです。)地色は青いものしか持っていませんが、何色かあった模様。

それはともかく。以下に描かれている車両を挙げてみます。今から22年前、1992年当時だということを頭に留めておいてください。
    
阪急電車は8000系、神戸電鉄は2000あるいは5000系のようです。いずれも当時の最新型が選ばれています。神戸市営地下鉄は1000系。当時は2000系もありましたが、数の上でも1000系が代表的存在だったと思われます。ポートライナーは8000系しかなかったので仕方ありません。JRは201系が描かれています。当時普通列車として多数が活躍しており、妥当な選択と言えます。ロープウェイはまあ、こんな感じでしょう。全部写真くらい揃いそうだと思ったのですが、ポートライナーの写真が出てこない・・・。

そこで阪神・山陽です。もちろん直通特急はまだ走っていません。
それを考慮しても阪神の赤胴車(オレンジの車両ですね)と山陽3000系旧塗装の組み合わせは「あれれ?」という感じでした。阪神はすでに8000系が主力になっていましたし、山陽も5000系が登場して6年が経っています。何よりこの当時にしても 旧塗装はいなかった のです。要するに阪神・山陽だけが1世代前の車両が描かれていたというわけなのです。

つまり、こ~んな感じですかね。写真は1988年頃の須磨浦公園駅。山陽3000系と阪神3501形。3501形は赤胴車最初の車両で、丸っこい車体が可愛いイメージでした。この写真撮影からほどなく引退しています。


いや、デザイナーさんに文句を言ってるんじゃないんです。む~パパ、この頃の阪神電車や山陽電車がとても好きだったので、デザイナーさんもきっとそうなんだろうな~と、ふと思っていただけなんですよ。

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