せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

梅の咲く須磨を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨寺界隈を歩いてみたいと思います。

綱敷天満宮

須磨寺駅から浜側へ向かって住宅地の中を歩くと、綱敷天満宮がありました。

綱敷天満宮の境内

綱敷天満宮の境内は多くの参拝客でにぎわっています。

綱敷天満宮は平安時代、左遷された菅原道真が九州・大宰府へ向かう途中にこの地に立ち寄ったことに由来して建立された神社です。少し不思議な神社の名前は須磨の漁民が綱を丸く置いて作った円座に道真が座ったという伝説にちなんでいます。なお、「綱敷」という名前の神社は各地にあり、それぞれにここ須磨と同様の伝説が残されています。こちらの須磨の綱敷天満宮が神社の姿になったのは天神への信仰と道真が結びついた天神信仰の広まった平安時代とされていて、天元2(979)年の建立とも伝わっています。

綱の円座

境内には伝説にちなんで綱でできた円座のモニュメントがありました。ちなみに、ここ須磨で道真が休憩した際に井戸水を汲んで飲ませた人物は後に前回訪ねた「頼政薬師」浄福寺を建立した前田氏の祖先といわれています。また、道真が水を飲んだ井戸は「菅ノ井」と呼ばれ、今も須磨寺駅と月見山駅の間に残されています。

梅林

綱敷天満宮の境内では甘い香りが漂ってきます。香りの元は境内に広がる梅林で、訪れたときはちょうど梅の花が見ごろでした。

梅林の梅

境内をかわいらしい梅の花が彩っています。こちらの梅林には様々な種類の梅が植えられていて、それぞれの花や香りを楽しむことができました。

梅林を眺めて

青空に向かって咲き誇る梅の花を見上げてみました。甘い香りに包まれるような梅林は多くの参拝客でにぎわっています。

しばらく梅林の中で花を楽しみ、源頼政や菅原道真の伝説に彩られた須磨の地を後にすることにしました。

梅の咲く須磨を歩いて(前編)

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寒さの中に春の気配を感じる頃、いかがおすごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

須磨寺駅

山陽電車で着いたのは須磨寺駅です。

須磨寺への道

須磨寺駅の山側には商店街が続いています。正面の山の麓には駅名にもなっている須磨寺がありますが、今回は反対側の浜側へ歩いてみることにしました。

頼政薬師

早速浜側へと歩きたいところですが、駅のすぐそばで細い踏切を渡ってみることにしました。踏切の先にあったのは住宅の中に佇む小さな寺院です。こちらは浄福寺といい、「頼政薬師」とも呼ばれています。

浄福寺は西須磨の前田氏という旧家の建立と伝わる古刹です。「頼政薬師」という別名は荒廃していた寺院を平安時代の末の久寿元(1154)年頃に源頼政が再建したことにちなんでいるとのこと。ご本尊の薬師如来像は聖徳太子の作、脇士の十二神将は江戸時代に尼崎藩主の青山氏から寄進されたものと伝わっています。

頼政薬師の境内

長い歴史のある寺院ですが、現在の本堂は阪神淡路大震災で倒壊した本堂を再建したもので真新しい見た目です。ちなみに、明治時代にはこの場所に一ノ谷小学が開設され、のちに現在の西須磨小学校になったそうです。境内にはそのことを記した石碑が建てられていました。

薬師踏切

頼政薬師の前には山陽電車の踏切があります。ちょうど直通特急が住宅の合間をレールを軋ませながらせながら通過していきました。

春本番を待つ須磨の街をもう少し歩いてみたいと思います。

えびす祭と兵庫津・柳原を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、兵庫の柳原を歩いてみたいと思います。

福海寺

大黒祭が執り行われていたのは福海寺です。

福海寺は南北朝時代の康永3(1344)年の建立と伝わる古刹です。柳原蛭子神社と並ぶように佇んでいますが、実はこちらの方が長い歴史を持っています。建立は足利尊氏とされ、建立以来足利将軍家の信仰を深く集めていました。元々この場所には針ヶ崎観音堂というお堂がありました。新田義貞に追われた足利尊氏がこの観音堂で匿われて九州へ逃れ、再び兵庫の港に戻って京都へ上り幕府を開いたことから、ここ兵庫の海が尊氏にとって「福の海」であるとして、観音堂を今のような寺院として、この寺号に定めたとも言われています。

西惣門跡

柳原蛭子神社のある角には「西惣門跡」と刻まれた石碑がありました。この辺りはかつては兵庫津の街で、柳原蛭子神社や福海寺のある辺りには西国街道の兵庫への入り口となる西惣門がありました。明治時代初めころまで福海寺は堀と塀で囲まれた砦のような姿で、街を防御するための拠点としての性格も持っていたそうです。

兵庫大仏

福海寺から西国街道を歩き、能福寺を訪ねました。こちらも平安時代の延暦24(805)年に最澄が建立したとされる古刹で、明治時代に建立された兵庫大仏は兵庫のシンボルのような存在ですね。

兵庫運河

能福寺から少し歩くと兵庫運河に差し掛かりました。商業施設の向こうには兵庫津ミュージアムが開館しています。ちょうどこの辺りには兵庫の街の代官所としての機能を持つ兵庫城がありました。近代以降、港の中心は徐々に東へと移っていくこととなりますが、この街の持つ歴史と繁栄が今の柳原えびすの賑わいを支えたのですね。

兵庫運河の穏やかな水面を眺めてから、畔にある中央市場前駅から地下鉄に乗って帰途に就くことにしました。

えびす祭と兵庫津・柳原を歩いて(前編)

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新年あけましておめでとうございます
本年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします

柳原えびす

遅くなってしまいましたが、今年の散策を始めることにしました。
まだお正月気分が残る中、神戸高速線の大開駅から歩いて着いたのは兵庫区の西柳原町です。
JR兵庫駅にほど近い場所に鎮座しているのは「柳原えびす」こと柳原蛭子神社(やなぎわらひるこじんじゃ)です。

十日えびす

柳原蛭子神社が特に賑わうのは正月明けの1月9日から11日まで「十日えびす大祭」です。訪れたときは祭りを間近に控えて境内に色鮮やかな提灯が飾られていました。

兵庫県でえびす神社と言えば西宮の西宮神社が知られています。もともと蛭子神はイザナギ・イザナミの最初の子が不具の子であったために葦の船に乗せられて流されたものとされ、船が流れ着いた先で海の神となりました。のちに蛭子神は農業や商業の神としてまつられるようになり、えびす神を商業の神として信仰するえびす講が広まるようになりました。

柳原蛭子神社の境内

柳原蛭子神社の境内も色とりどりの提灯で飾られていました。

現在、阪神間を中心に1月10日や15日頃に行われている「十日えびす」はえびす講の親交の広まりの中で10月や1月におこなわれるようになったえびす祭が変化していったといわれています。ここ柳原に蛭子神社が建立された時期ははっきりとわかっていませんが、江戸時代初め頃には神社があったという記録があり、神社がある兵庫の街が発展するとともに「十日えびす大祭」も執り行われるようになったとされています。

福海寺

柳原蛭子神社の北側の道はかつての西国街道です。かつての街道を挟んで佇んでいたのは「柳原大黒天」こと福海寺です。大黒天を安置するこちらの寺では「十日えびす」と同じ期間に大黒祭が執り行われ、多くの参拝客で賑わいます。

「十日えびす」で賑わう柳原をもう少し歩いてみることにしました。

年の瀬の舞子を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて舞子を歩いてみたいと思います。

明石藩舞子台場跡

舞子公園から海沿いを西へ歩くと、石畳の一角がありました。こちらは明石藩舞子台場跡です。「台場」と言えば東京のお台場がよく知られていますが、こちらは幕末の文久3(1863)年に明石藩が勝海舟の指導を受けて築いた台場です。対岸の淡路島の松帆にも阿波藩松帆台場が設けられ、二つの台場が対となって明石海峡の防衛を担っていました。現在では小公園のように整備されているほか、発掘調査で出土した石垣を見学できるようになっています。

舞子延命地蔵

舞子台場跡から国道沿いに歩くと、大きな地蔵がありました。こちらは舞子延命地蔵で、木槌でお地蔵さんの台座をたたくとご利益があるという伝説があることから、「たたき地蔵」とも呼ばれています。

舞子六神社

国道から分かれる細い道はかつての西国街道で、街道沿いには西舞子地区の街並みが続いています。地区の真ん中にあったのが舞子六神社です。

舞子六神社の境内

松の木が美しい境内は夕日に染まりつつありました。

舞子六神社の創建時期は分かっていませんが、元禄2(1689)年に遡ることができるとも言われています。現在は舞子公園駅の周辺が舞子の中心となっていますが、山田村と呼ばれたかつては山陽電車の西舞子駅周辺のこの辺りが地域の中心でした。江戸時代の中頃に山田村の鎮守として神社を建立したのが舞子六神社の始まりではないかと言われています。

戎社・大黒社

境内の隅にあった小さな祠は戎社と大黒社です。祠よりも目立つのが巨大な大黒神と恵比寿神の石像で、日本一の石像と言われています。もとは舞子の東の歌敷山にあり、現在は愛徳学園の敷地となっている辺りにあった邸宅の石像をこの地に移したものだそうです。年明けには初詣だけでなく境内の隅にあった小さな祠は戎社と大黒社です。

舞子公園の夕日

西舞子から舞子公園へと戻りました。
冬至に近い冬の日はちょうど海に沈もうとしていて、公園にある「夢レンズ」と夕日がちょうど重なりました。
明石海峡の美しい夕日を眺めて、舞子を後にすることにしました。

2023年の更新は今回までです。
今年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をご覧いただきありがとうございました。今年2023年はブログを開始して10年という節目の年でした。ここまで続けられたのも皆様のおかげで、心より感謝申し上げますとともに、今後もよろしくお願いいたします。

どうぞよいお年をお迎えください。

年の瀬の舞子を歩いて(前編)

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年末も迫る頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

舞子公園駅

山陽電車で着いたのは舞子公園駅です。

明石海峡大橋

舞子公園で特に目立つのが明石海峡大橋ではないでしょうか。訪れたときは冬至も間近。早くも暮れかけた空の下に巨大な橋がそびえていました。

舞子の松

舞子公園への一角に松の木がモニュメント的に植えられていました。今では山手に広がる住宅地のイメージが強い舞子ですが、古くは「白砂青松」の景勝地として知られていました。特に近代には大阪や神戸に近い立地ながら風光明媚な景色を楽しめる場所として別荘が建ち並んでいました。開発によって松林も砂浜もほとんどが姿を消してしまいましたが、今も舞子公園の一部、山陽電車の浜側に松林の一部が残され、かつての風情を今に伝えています。

孫文記念館(移情閣)

海辺へと歩くと、夕日に染まりゆく空をバックに洋館が佇んでいました。こちらは「移情閣」こと孫文記念館です。

孫文記念館はもともと華僑の貿易商・呉錦堂が大正4(1915)年に建てた別荘の「松海別荘」の一部で、かつては現在の場所の山手の舞子の浜沿いにありました。別荘の主の呉が亡くなったのち、昭和3(1928)年には国道の拡幅工事に伴なって別荘の母屋は取り壊されてしまいましたが、明石海峡を行く船の目印になるとしてこの建物は残されることになりました。戦後には神戸にもゆかりのある孫文を記念する資料館として使われるようになり、明石海峡大橋の架橋に合わせてかつての場所から少し浜側に埋め立てられた現在の場所に移築されています。船の目印にもなったというだけあってとても目立つ建物で、かつて別荘地だった頃の舞子を象徴するだけでなく、今では明石海峡大橋とともに舞子のシンボルのような存在ですね。

年末の日が傾く中、もう少し舞子を歩いてみることにしました。

秋の深まる下山手を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、神戸の下山手を歩いてみたいと思います。

旧ハッサム邸

公開されていた旧ハッサム邸宅には秋の日差しが差し込んでいました。かつての小寺邸は神戸大空襲によって焼失してしまいましたが、このハッサム邸の西側の現在は迎賓館「THE SORAKUEN」になっている辺りに建っていたようです。

日本庭園

旧ハッサム邸を出て、日本庭園を歩いてみることにしました。木々が色づき始めた園内は秋らしい雰囲気で、結婚写真の撮影もおこなわれていました。

船屋形

池に面して佇む不思議な形の建物は船屋形です。

船屋形はその名の通り元々は船の一部だったものを改造した建物です。もとは江戸時代に姫路藩で使われていた川御座船で、藩主が川で遊覧する際に使われていたとのこと。幕末には飾磨港に泊め置かれていましたが、明治時代に入ると屋形の部分だけが陸揚げされて建物として使われるようになり、船としての機能は失われました。その後、所有者が移り変わり、戦前の昭和14(1939)年には舞子の民家の敷地内に移築されました。この民家も神戸淡路鳴門自動車道の建設により現存していませんが、この船屋形は歴史的価値が認められ保存のために神戸市へ寄贈され、昭和55(1980)年にここ相楽園へ移築されてかつての華麗な姿が復元されました。

船屋形と紅葉

春慶塗と黒漆塗で塗られて金の金具が輝く船屋形が少し早い紅葉の日本庭園に佇んでいました。船屋形も、先ほど訪ねた旧ハッサム邸も、もとからこの場所にあったわけではありませんが、不思議と景色に調和しているように見えます。

相楽園を歩く

神戸で財を成した小寺家の邸宅跡は美しい庭園に神戸にゆかりのある建物が建ち並ぶ公園となっていました。今では兵庫県公館とともに都会のオアシスのような空間です。これからの季節、神戸の街の真ん中とは思えないような紅葉に彩られることでしょう。神戸の都心でも紅葉狩りを楽しんでみてはいかがでしょうか。

秋の深まる下山手を歩いて(前編)

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10月末が近づき、秋の深まりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

県庁前駅

神戸市営地下鉄西神山手線で着いたのは緑に囲まれた県庁前駅です。繁華街・三宮から一駅ですが、駅の周辺は行政機関の庁舎やマンションなどが建ち並び、都心にありながらどこか閑静な雰囲気です。

兵庫県公館

県庁前駅のすぐそば、木々に囲まれて佇むのが兵庫県公館です。

兵庫県公館の正面

立派な門の横から公館の前庭へと進みました。木々の合間から、風格ある建物が姿を現します。

現在は兵庫県公館として兵庫県の迎賓館や県政資料館として使用されているこちらの建物ですが、もとは兵庫県の県庁舎として建てられたものです。明治維新で兵庫県が設置されたのは慶応4・明治元(1868)年のことでした。当時の県域は現在の兵庫県のような広大なものではなく、現在の兵庫区やその周辺の旧幕府領がそのまま兵庫県になったもので、県庁は旧大坂町奉行所兵庫勤番所に置かれました。こちらは現在、「初代県庁館」として当時の建物が復元されています。その後、県域の変遷に伴い、県庁舎は兵庫から神戸の山手へと移転します。そして、4代目の県庁舎として建てられたのが今の兵庫県公館でした。

兵庫県公館を見上げて

木々に囲まれた兵庫県公館を見上げてみます。こちらの建物は昭和20(1945)年の神戸大空襲で内部を焼失しましたが、戦後に復旧工事が施されて昭和58(1983)年まで現役の庁舎として使用されてきました。その後、改修工事を経て、現在の兵庫県公館となりました。

相楽園

兵庫県公館を出て、さらに山手へ向かいます。住宅地の中に立派な門が佇んでいました。こちらは相楽園です。

次回は相楽園を訪ねて、秋の神戸の山手を歩いてみたいと思います。

石屋川のほとり・御影を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、御影を歩いてみたいと思います。

西国街道の松

透き通った水がこんこんと湧き出す「澤之井」のある阪神御影駅から北西へと歩くことにしました。
中学校の裏手、住宅地が広がる中に佇んでいたのは趣のある松の木です。「西国街道の松」と呼ばれるこの松の木は呼び名の通り、この地を通っていた西国街道沿いに植えられた松の木で、江戸時代からこの地を見守ってきました。確かに風格のある美しい松の木ですね。松の木の向かいには「旧西国街道」と書かれた石碑が建てられていました。

六甲山地の麓に位置する御影は山から算出される花崗岩を使った石材の産地、そして、澤之井の伝説にみられるような豊かな水を使った酒造地として、近世にかけて発展することとなりました。現在、六甲山での石材の採取は行われておらず、御影の名前は花崗岩の別名の「御影石」に残るのみです。しかし、酒造業は今も盛んで、御影の海側は灘五郷の「御影郷」とされて今も酒造メーカーの工場が建ち並んでいます。明治22(1889)年、御影村は周辺の村とともに御影町となりますが、酒造を中心とした産業が盛んで、産業の発展を背景に大きな人口を抱えた豊かな町だったとされています。

御影公会堂

国道沿いを歩いていると、石屋川沿いに立派な建物がそびえていました。こちらは神戸市立御影公会堂という施設です。

御影公会堂の内部

戦前の昭和8(1933)年に建てられた建物の内部は重厚な雰囲気で、国の登録有形文化財に指定されています。

御影公会堂は当時の御影町が建てた文化施設で、大ホールは1000人が収容ができる当時としては巨大なもので、御影町の発展を象徴するような建物です。しかし、竣工からほどなく、昭和20(1945)年の神戸大空襲で御影の町とともに公会堂は大きく被害を受け、内部はほぼ焼け落ちてしまったそうです。戦後の昭和25(1950)年に御影町は神戸市へ編入され、公会堂の所有も神戸市へと移管されました。応急的な復旧がなされて幼稚園として使われていたという公会堂は神戸市の予算でようやく復旧され、現在も地域の集会施設として使用されています。

嘉納治兵衛像

公会堂が建てられるにあたっては御影町の資金の他、御影郷の酒造業者・白鶴酒造嘉納治兵衛からの寄付が使われました。公会堂の中には嘉納治兵衛の像がありました。

御影町章のマンホール

公会堂の裏手へ回ってみるとかつての御影町の町章が描かれたマンホールが残されていました。

石屋川と六甲の山並み

公会堂から石屋川に沿って歩いていくと六甲の山並みを望むことができました。

水や石材といった六甲の恵みとともに発展してきた御影は今も六甲の麓に佇んでいます。

石屋川のほとり・御影を歩いて(前編)

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朝晩は涼しくなり、夏の終わりを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪神御影駅

直通特急を下りたのは阪神電車の御影駅です。
駅前にはバスターミナルと商業施設が整備され、地域の拠点の雰囲気です。

澤之井の地

御影駅の駅前には石碑が佇んでいました。
立派な石には「澤之井の地」の文字が刻まれています。

神戸市の東灘区に位置する御影は戦後の昭和25(1950)年に神戸市へ編入されるまで御影は御影村~御影町という独立した自治体でした。御影石で知られる地名の由来になったとされるのはこの石碑に刻まれている「澤之井」という泉であるとされていて、伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地に立ち寄った際に自分の姿を泉に写したことから「御影」という地名が付けられたとされています。ただ、地名の由来には諸説があるとされています。

澤之井

石碑は駅前にありますが、澤之井自体は阪神電車の御影駅の高架下にあり、今も鳥居と玉垣に囲まれた泉が佇んでいました。

澤之井を眺めて

高架下の薄暗い場所になってしまいましたが、泉を覗いてみると今もこんこんと清い水が湧き出していました。水底がはっきりと見える透明度に驚いてしまいますね。澤之井の水を使った酒を後醍醐天皇へ奉納したことがここ御影での酒造の始まりであるともされています。実際にこの辺りで酒造が盛んになったのは江戸時代頃とされているので、この後醍醐天皇の話はあくまで伝説なのかもしれませんが、水に恵まれた御影を象徴するような泉です。

賑やかな街に歴史ある史跡の佇む御影をもう少し歩いてみたいと思います。