せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

有馬温泉に秀吉と官兵衛の足跡を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、有馬温泉を巡ってみたいと思います。

天神泉源

温泉街の路地を歩いて行くと、温泉街を見下ろす天神泉源にたどり着きました。
有馬の街中には多数の泉源があり、こちらはその一つ。その名の通り、有馬天神社の境内にあります。もくもくと噴き出す湯気がいかにも温泉地と言う感じですね。

温泉寺

天神泉源から古い建物が建ち並ぶ複雑怪奇な路地を通り抜けて温泉寺にたどり着きました。
こちらの寺院は神亀元(724)年に行基が開いたと言われ、古い歴史を持っています。観光案内などでは「温泉寺」となっていますが、正式な名称は「温泉禅寺」といい、黄檗宗の禅宗寺院です。

古い歴史をもつ有馬温泉ですが、幾度となく存亡の危機にさらされました。前回紹介した慶長伏見地震もその一つです。
そのほかに、この温泉寺に伝わる縁起によると、承徳元(1097)年に大規模な土砂災害があり、有馬の街は壊滅。以後、100年近くの間、街は消滅してしまったと言われています。この有馬を再建したのが大和国吉野郡川上村の高原寺の僧・仁西でした。熊野権現の導きで土砂に埋まった温泉を発見した仁西は十二の宿坊を開き、川上村の平家落人を招いて経営させました。これが現在に残る温泉宿「有馬十二坊」の始まりと言われています。
ただし、仁西は記録が非常に少ない上に、当の川上村には高原寺という寺院も存在せず、謎の人物とされています。また、実際の記録で「坊」とつく旅館が現れたのはこの仁西の話の200年以上後の室町時代中頃ということで、この話の信憑性は薄いとの説もあるとのこと。

太閤の湯殿館

温泉寺の奥には極楽寺という寺院がありました。この寺院の境内には「太閤の湯殿館」という博物館があり、館内では阪神淡路大震災の際に倒壊した極楽寺の庫裏の下から発見されたという「湯山御殿」の遺跡を観ることができます。

有馬温泉を気に入り、幾度となく湯治に訪れた豊臣秀吉慶長伏見地震の際に湧出した新たな泉源に湯山御殿の造営を始めました。まさに「御殿」というような贅を尽くした建物だったそうですが、病に倒れた秀吉は湯山御殿の完成を見ることなくこの世を去りました。以後、1995(平成7)年の阪神淡路大震災後の発掘まで御殿は幻の存在となりました。館内で秀吉がついに入ることのなかった岩風呂の遺構を見下ろすと、何だか考えさせられるものがあります。

太閤の湯

温泉街の外れには「太閤の湯」という日帰り温泉施設があり、館内には湯山御殿の岩風呂を模した温泉があります。「太閤の湯殿館」で遺跡を見た後にこの温泉に入ると何だか妙な気分になってしまいますね。

官兵衛古道

「太閤の湯」の前庭には「官兵衛古道」なる遊歩道がありました。「太閤の湯」のリニューアルに際して設けられたそうで、歩道上には黒田官兵衛ゆかりの地名がつけられています。

有岡城!?

ちょっと驚くのが「有岡城」。なんと、官兵衛が幽閉された有岡城の土牢が再現されていました。この土牢から脱出した官兵衛は有馬温泉で体を癒したそうです。有馬温泉の効果があれば十分完治できるはずでしたが、三木合戦の報を聞いた官兵衛は温泉を飛び出し、戦場へ馳せ参じていきました。完治しなかった左足は曲がったままとなってしまいます。

再び温泉街を歩く

夕暮れ、温泉街へと戻ってきました。
観光客がそぞろ歩く中、過去から現代まで、多くの人を癒してきた有馬温泉を後にすることにしました。

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有馬温泉に秀吉と官兵衛の足跡を訪ねて(前編)

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秋らしく肌寒くなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
温もりの恋しくなってきたこの頃、有馬温泉を訪れてきました。

神戸電鉄有馬温泉駅

電車を乗り継いで到着したのは神戸電鉄の有馬温泉駅
ガラス張りの建物は温泉地らしからぬ現代的な雰囲気ですが、 二階には茶室「有大庵」があり、実は和風な駅です。

有馬温泉は「日本三大古泉」の一つと言われ、非常に古い歴史を持っています。温泉が発見された時期は詳しくわかっておらず、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)という神が見つけたとも言われています。飛鳥時代以降には天皇が入浴したとの記録がいくつも見られ、この時代には既に温泉地として知られていたことが分かります。その後、行基仁西といった僧侶が寺院や宿坊などを整備し、温泉地としての体裁が整えられていきました。

太閤橋

有馬温泉駅から交通量の多い道を歩いて行くと、有馬川のほとりに出ました。
川に架かるのは「太閤橋」
以前は「太古橋」という名前だったのですが、平成13(2001)年にリニューアルされて「太閤橋」という名称に変更されました。

秀吉像

太閤橋のたもとにある公園に行ってみると、豊臣秀吉の晩年の姿を表した像がありました。穏やかな視線の先に目を移してみると、有馬川にかかる赤い橋が見えました。

ねね橋

赤い橋は「ねね橋」
平成8(1996)年にできた新しい橋ですが、有馬川の景色に何だか合っているような気もします。 橋のたもとには秀吉の正室・ねねの像がありました。太閤橋の秀吉像はこのねね像を見ていたようです。

中世には全国有数の温泉地として整えられた有馬温泉ですが、1500年代に二度の大火に見舞われ、温泉街を見下ろす落葉山に城があったことから戦の舞台ともなり、荒廃しました。極めつけは文禄5(1596)年の慶長伏見地震です。建物等の被害だけでなく、この地震の影響で温泉の温度が上昇し、有馬温泉は致命的なダメージを受けました。
荒廃した有馬温泉の再建に協力したのが秀吉でした。
建物の再建だけでなく、湧出温度が上昇してしまった泉源の改修を行い、名実ともに有馬温泉を見事によみがえらせたのです。なお、有馬ではこの秀吉の改修以降、泉源の改修は行っていないそうです。

温泉街を歩く

秀吉の話が長くなってしまいましたが、まだまだ温泉街に入ったばかりです。
先を急ぐことにしましょう。
次回は、さらに秀吉と有馬温泉の関係に迫ってみます。

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知られざる「明石城」を求めて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、船上城とその城下町を歩いてみたいと思います。

密蔵院

城跡から南東に向かうと、大きな寺院の屋根が見えてきました。
こちらは密蔵院という寺院。
平安時代の延喜4(904)年に創建された寺院と伝えられ、船上城があった頃は城下町の中にありました。かつては多くの堂宇が立ち並び、非常に栄えたそうですが、 昭和20(1945)年7月の明石大空襲によって焼失してしまいました。現在の建物は昭和51(1979)年に再建されたものです。
ちなみに、境内には天ぷら油をかけて願掛けをする「油掛地蔵」なるお地蔵さんがあります。

望海浜公園

密蔵院の前に広がるのは「望海浜公園」です。
この辺りが船上城の南端に相当し、土塁が築かれていました。 土塁の向こうには港があり、瀬戸内海を行きかう船が停泊し賑わっていたようです。
この土塁は近年まで残っていたということなので、しばし、公園の中を探してみたのですが、見つかりませんでした。
ちなみに、この公園は古くから景勝地として知られていて、江戸時代に明石城主を務めた 松平直明はこの地に「望海亭」なる茶室を設け、景色を楽しんだそうです。

宝蔵寺

望海浜公園から北西へ向かい、再び船上城の城下町へ戻ることしました。
石畳の敷かれている路地を歩いて行くと、本瓦葺きの寺院が現れました。
こちらは通称「林の毘沙門さん」と呼ばれる宝蔵寺という寺院です。
密蔵院と同じく船上城の城下町にあり、さぞ栄えたのであろうと思いきや、船上城のあった一時期には空き家となっていたようです。
船上城を築いた高山右近は大河ドラマでも触れられたように、熱心なキリシタンでした。右近が前任地の高槻で仏教徒をキリスト教に改宗させてきたことに警戒感を覚えた宝蔵寺の僧侶たちは右近の排斥を図りますが、逆に処罰され、江井ヶ島へ逃れることになりました。空き家となった宝蔵寺はキリスト教の教会として使用され、宣教師たちが住んでいたとのこと。仏教の寺院に戻ったのは右近が追放された後の事でした。
寺には今も隠れキリシタンが礼拝に使ったとされる「マリア観音の十字架」が保存されています。

高砂道

宝蔵寺の前の道路は山陽道より海側のルートで明石と高砂を結ぶ「高砂道」と呼ばれる街道でした。今は住宅が建ち並んでいますが、かつてはこの道路沿いが船上城の中心だったと言われています。不自然に曲がった「鍵辻」が城下町の風情を今に伝えています。

政治と経済の中心として栄えた船上城とその城下町ですが、中世都市の定めと言うべきか、近世に入ると消えていくことになります。
元和3(1617)年に明石郡を与えられた小笠原忠真は当初船上城に入りますが、将軍・徳川秀忠の命ですぐに新城の建設に取り掛かりました。この新城が現在に残る明石城で、船上城は明石城と入れ替わりに元和5(1619)年に廃城となりました。高山右近が城を築いてからわずか33年のことです。ちなみに、船上城の建物の一部は明石城で再利用されていて、今でも巽櫓などでその姿を見ることができます。

山陽電車と踏切

北へ向かうと山陽電車の新しい高架橋が見えてきました。
この景色が見られるのもあとわずかの間。中世から現代へと大きく変貌した街は、さらに変化の時を迎えようとしているというべきでしょうか。
かつて「明石城」と呼ばれた城と城下町に思いを馳せながら帰路につくことにしました。

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知られざる「明石城」を求めて(前編)

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朝晩はめっきり寒くなったこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

前シリーズでは明石城とその周辺を歩いてみました。
しかし、実は、明石には今に残る明石城ができる以前にも「明石城」と呼ばれた城がありました。今回はそんな知られざる「明石城」を求めて歩いてみたいと思います。

西新町駅

スタートは山陽明石駅の西隣の西新町駅。
現在は「山陽電鉄本線明石市内連続立体交差事業」の第二期工事のために仮駅舎になっています。
駅のすぐそばには巨大な高架橋がそびえ立っていて、”新”西新町駅らしい構造物も姿を現していました。数年後にはこの周辺の景色は一変していることでしょう。

旧山陽道

西新町駅の東には国道2号線の仮橋と仮踏切があります。
山陽電車・国道と斜めに交差するのは旧山陽道
山陽電車がこの踏切を行きかう光景も間もなく過去の景色となります。

船上城

西新町駅から住宅地の中を歩いていくと、街中にぽっかりと田んぼがありました。
稲刈りが終わった田んぼは何だか寂しげですが、その真ん中には鬱蒼と茂る森がありました。
この森が別名「明石城」と呼ばれた「船上(ふなげ)城」の天守台の跡と言われています。

船上城は天正14(1586)年、秀吉の四国征伐の後に行なわれた所領替え「天正の国替え」で高槻城主だった高山右近が明石郡を与えられたことから始まります。右近は一旦、現在の神戸市西区にあった枝吉城(ちなみに、この城も別名「明石城」と呼ばれます)に入った後に、明石川の河口付近へ新しい城と城下町を築きました。それがこの船上城です。今に残る明石城よりも100年も前に、この地に大きな城と城下町があったのです。
その後、熱心なキリシタンだった右近が「バテレン追放令」によりフィリピンのマニラへ追放されてから、この地域は秀吉の直轄領となります。船上城には秀吉配下の城番が置かれたものの、城主は不在となります。しかし、この時期、船上城の城下町は瀬戸内海を航行する船が立寄る港町として非常に栄えたようです。

天守台へ

田んぼのあぜ道を歩いて天守台跡へ上ってみました。
当時はかなり大規模な城郭があったようですが、今に残る天守台は意外なほどの狭さです。かつてはそれなりの広さがあったそうですが、徐々に田んぼに浸食されていったようです。木々の中に「古城大明神」なる神社が佇んでいました。

堀の跡?

天守台跡の近くにはその名も「古城川」という名前の川が流れていました。
この川は船上城の堀跡と言われています。
この堀の南西には船上城の城郭と瀬戸内海航路の中継港として栄えた城下町が広がっていました。
次回は船上城の城下町を探ってみたいと思います。

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城下町・明石を歩いて(前編)

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秋になったと思ったら夏に戻ったような暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路ウィークで姫路城を巡ってきましたが、山陽沿線で注目したいお城は姫路城だけではありません。今回は沿線の中核都市である明石の城下町を巡ってみました。

山陽バス明石線

スタートは朝霧駅前
ここから山陽バス明石線に乗ってみます。
山陽バスで明舞地区の団地を巡り、辿り着いたのは大蔵海岸西口。 随分と長い時間乗っていたようですが、結局、同じようなところに戻ってきたような感じで、近くには朝霧駅が見えます。たまにはこんなローカルバスの旅もいいでしょう。

中崎公会堂

大蔵海岸西口からほど近くには中崎公会堂という建物があります。
瓦屋根の見るからに古い建物ですが、実は明治44(1911)年の建築です。洋風建築が盛んな時代に建設されたにも関わらず中世風の和風建築が珍しいですね。
築100年を超える今もなお現役の公会堂として使用されていて、中ではダンスの練習中でした。

大日本標準時子午線通過地識標

中崎公会堂から山陽電車の人丸前駅の方向へ歩いていくと姿を現したのは立派な石碑。
こちらは明治43(1910)年に建立された日本標準時子午線の通過地を示す石碑です。
中崎公会堂の築年と近いのは偶然なのかもしれませんが、もしかすると、明治40年代辺りに明石が輝いた時代があったのかもしれません。
ちなみに、この石碑の前を南北に走る道は旧山陽道で、ちょうどこの付近でクランク状に曲がりながら東西を結んでいます。

城下町としての明石は元和6(1620)年に小笠原忠真が人丸山に城郭を築き船上城(山陽電車西新町駅近く、現在の明石市新明町にあった城)から移ってきたことに始まります。
築城とともに町も整備され、小笠原氏10万石の城下町として整えられていきました。
旧城下町の三木までを含む播磨では大きな藩の中心都市として栄えていくことになります。

柿本神社

山陽電車の高架を潜り、山手に向かうと現れたのは柿本神社
現在は天文科学館が目立っていますが、かつては柿本神社の森が明石のシンボル的存在だったようです。
神社のある人丸山は街中の公園といった雰囲気ですが、実は、この山は明石城築城のきっかけとなった明石の街のルーツとでもいうべき山です。

次回は人丸山から明石城へと巡っていきたいと思います。

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姫路城のお堀を歩いて(東部後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
「姫路ウィーク」は来週23日までですね。
何だかお堀を歩いてばかりだったような気がしますが、気にせず、堀から姫路城を見ていきたいと思います。

久長門跡

堀に沿って城跡に建つ学校の裏手を歩いていくと、堀に架かる橋が見えてきました。
この位置には久長門という城門があったそうです。
橋の下を水が勢いよく流れていました。
淀んでいるように見えるお堀の水ですが、数日をかけてゆっくりと循環しているそうです。
中堀はこの先も続いていますが、ちょっと気分を変えて城内に入ってみることにします。

天守閣を真横から眺める

動物園の脇を過ぎ、城内へ。内堀に架かる仮設橋の向こうには真っ白な天守閣がそびえていました。
真横から眺めた天守閣はやはり真っ白です。

内堀を見下ろす

城内に張り巡らされた内堀は他の堀と違って埋め立てられることなくほぼ原形のまま残っています。姫路城は姫山という天然の山に築かれた城なので、所によっては内堀がこんな渓谷のように深く切り込んでいるところも。

大手門へ

城内を通り抜けて再び大手門の前に戻ってきました。
ちょうど、内堀を観光用の舟が通っていきます。
白い天守閣をバックに舟がゆっくりと横切っていく景色は、何だか、浮世絵のワンシーンのようですね。

外堀

大手門に戻ってきて、さて帰るかと言いたくなりますが、最後に見ておきたいのが外堀。西部編で説明したように、姫路城の外堀は西の船場川と東の外堀川がその役目を担っていました。
その外堀川はというと、現在も、お城の東の住宅地の中をゆったりと流れています。
コンクリートの護岸で固められ、江戸時代とはかなり違った姿になっているようですが、住宅地の中を人知れず流れる外堀川にこそ、堀の魅力があるのかもしれません。

彼岸花

外堀川の畔には彼岸花が咲き始めていました。

四回に渡って姫路城のお堀を巡ってみましたが、いかがでしたでしょうか。
大手前から眺めた姫路城とはまた違った姿が見えてきませんか??
これから秋の気候の良い季節です。あなただけの姫路城を探しに歩いてみてはいかがでしょうか。

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姫路城のお堀を歩いて(東部前編)

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秋になったと思ったら暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

引き続き、「姫路ウィーク」が開催中です!
前回まで、姫路城のお堀の西側を歩いてきたのですが、引き続き東側を見ていきたいと思います。

国道と中堀

再スタートは姫路城を望む大手前交差点から。前々回に紹介したように、現在の国道2号線は姫路城の中堀を埋め立てて拡幅を行ないました。現在でも土塁が残されています。ちなみに、国道と交差する大手前通ではこの連休の日曜日に開催された「第14回スルッとKANSAIバスまつり」のフィナーレを飾るバス車両のパレードが行われました。パレードの様子はあまQさんのブログで紹介されています!

総社門跡

国道を西に向けて歩いていくと、総社門跡に着きました。その名の通り、播磨国総社こと射楯兵主神社の南側にあります。

総社西門

総社門跡から北へ歩くと、総社西門の前に出ます。播磨国総社といえば、歴史部初活動となった三ツ山大祭が記憶に新しいですが、早いものであれから一年半が経っています。
ちょっと失礼して総社の境内を横切ることにしました。

東部中堀

総社の境内を通り抜けて大黒町交差点に出ると、水をたたえた堀が現れました。畔の柳の木が何とも優美な雰囲気です。こちらは今に残る中堀です。ここから南側は国道の拡幅工事や市街化によって堀は埋め立てられてしまいましたが、ここから北側は江戸時代の姿がそのまま残されています。

江戸の風情

城跡に建つ学校の裏手へ中堀は続いていきます。
石垣の向こうに建つ建物こそ変わってしまいましたが、石垣と堀が織りなす穏やかな景色は江戸時代のままなのでしょう。西部とはまた違った風情があります。

穏やかな景色を眺めたところで次回へ続きます。
もう少し、姫路城のお堀を巡ってみましょう。

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姫路城のお堀を歩いて(西部後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
「姫路ウィーク」の今回は前回に続いてお堀から姫路城を見ていきたいと思います。

清水門跡

船場川と中堀の間を歩いていくと、少し開けた場所に出ました。
こちらは清水門という城門があった位置です。清水の名の通り、ここには「鷺の清水」と呼ばれる井戸があったそうで、門跡の横に井戸が復元されていました。
船場川と中堀はこの先も北へ北へと続いていきますが、ここでちょっと城内に入ってみましょう。

内堀

清水門跡から城内に入ると姿を現したのは内堀。
この堀は天守閣のある姫山をぐるりと取り囲むような形状の堀です。ちなみにこの付近、土塁で見えないのですが船場川、中堀、内堀の三本の堀が並行しています。
堀の内側は姫山原生林の鬱蒼とした森で、淀んだ堀がジャングル感を醸し出しています。

姫路城は、ご存じのように黒田官兵衛が生まれ、後に秀吉の居城となった城です。
ただし、現在のように整えられたのは関ヶ原の戦いの戦功で播磨国を与えられた池田輝政が入城してからです。江戸時代に入ってから本多忠政が入城し、この時に西の丸が整備されほぼ現在の姿となりました。これまで見てきた堀も1600年代の初めに整備されたものです。

北勢隠門跡

内堀に沿って歩いていくと巨大な石垣が見えてきました。
こちらは北勢隠門という城門の跡です。

大規模に整備された姫路城の堀ですが、大正・昭和期にかけて国道の整備や市街地の開発に伴い、一部が埋め立てられてしまいます。しかし、それ以外の何重にも巡らされた堀はほぼ当時のままの姿で残されています。こうした城は、日本では実は珍しく、天守閣だけではない姫路城の魅力を感じることができます。

大手門へ

北勢隠門跡をクランク状に曲がると観光客が増えてきて、見慣れた景色になってきました。

天守閣を望む

桜門橋まで戻ってきました。石垣の向こうには真っ白な天守閣が覗いています。
深い深い姫山原生林を見ながら歩いてきたせいか、少しホッとしてしまいました。姫路城の堀を巡る短い旅はこれで終わり…と言いたいところですが、姫路城のお堀は今回紹介した西部の他に東部にも残されています。また改めての機会に歩いてみたいと思います。

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姫路城のお堀を歩いて(西部前編)

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そろそろ秋の気配を感じる季節になってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今週と来週は山陽沿線ブログ「姫路ウィーク」ということで、 姫路を訪れてきました。

真っ白な姫路城

姫路と言えばもちろん姫路城!
工事用の素屋根が解体されて姿を現した天守閣は眩しいくらいの白さです。
姫路城はこの美しい天守閣が世界的に有名ですが、天守閣だけが城ではありません。
天守閣の他に城郭を取り囲む堀がほぼ残されている点でも姫路城は貴重な存在とされています。というわけで、今回はお堀から姫路城に迫ってみたいと思います。

備前門跡に残る外堀

姫路城には外側から外堀中堀内堀三国堀の四種類の堀があります。
まず訪れたのが城の南西側に残る外堀です。前後を埋め立てられているために池のようになってしまっていて、流れがないせいか水は汚れて淀んでいますが、どことなく堀の雰囲気が残っています。

姫路城では外郭の周りを西の船場川と東の外堀川が流れ堀の役割を果たしていました。東西の川を結ぶように城の南側にも外堀が設けられていたのですが、こちらは市街地の開発に伴い、埋め立てられています。また、南西側には船場川と並行して外堀が設けられていて、今残っているのはその一部です。

国道になった中堀

船場川に沿って北上していくと、国道2号線の交差点に着きました。
現在も土塁が残されていることからわかるように、ここも城郭の一部で、現在国道になっている部分にはかつて中堀がありました。

現在も残る中堀

国道2号線を渡ると、船場川に沿うように堀が現れました。中堀の南部分は国道の用地として埋め立てられてしまいましたが、それ以外の大部分はこうして残されています。この付近には車門という城門があったようで、堀の北側には門の石垣が残されていました。

天守閣を望む

車門跡を過ぎると、船場川中堀が並行しして北へと伸びていきます。鬱蒼と茂る木々の向こうに真っ白な天守閣が見えてきました。木々の緑と白い天守閣とのコントラストがなかなか強烈です。大手前からとは一味違う眺めで、姫路城の違う側面を眺めたような気がします。
この先、中堀と船場川は北へと続いて行きますが、そろそろ外郭の中に入ってみましょう。

というわけで、次回に続きます。

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播磨のお城めぐり その3~利神城と平福の街並み

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こんにちは、玄蕃允です。

前回の続きで、山陽姫路からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三城を押しているようです。

今回は利神城(りかんじょう)です。

公共交通機関では、智頭急行の平福駅が最寄りとなります。駅のすぐ裏手が利神城跡になりますが、山城で現在崩落危険な箇所があるため、城跡まで登山できません。

平福駅


平福駅は近畿の駅百選に選ばれているそうで、立派な駅舎が建っています。

平福は江戸時代前は利神城を中心とした城下町として、江戸時代に入ってからは姫路と鳥取を結ぶ因幡街道の宿場町として、参勤交代や物流で栄えました。

この利神城ですが、池田輝政の甥・池田由之が姫路城の支城として入ります。「雲突城」とも称されたそうで、麓からでもその美しさがよく分かります。

利神城


間近で見ることができないのが、残念です。竹田城が有名になりましたが、匹敵する美しさではないでしょうか。

もともとは1349年に赤松氏の一族の別所敦範が築城しました。戦国時代に入り、別所氏は播磨に侵攻する織田方に一度は従いますが、播磨の領主たちがつぎつぎと織田を見限り、中国地方の毛利方に従う中でそれに追随します。織田方の上月城主・尼子勝久と山中鹿之介が利神城を奪いますが、毛利氏が上月城を落とし、利神城はその時毛利方であった宇喜多氏の城となります。

関ヶ原の戦い後、池田氏が播磨を与えられますが、輝政が姫路城に、甥の由之がこの利神城に入りました。

由之は城の大改修に着手し、三重の天守を構え、曲輪を全て石垣で築きました。また、城下町を整備し、武家町や街道沿いに町人地を設けました。輝政はその豪壮さに驚き、江戸幕府の警戒を恐れて天守の破却を命じたとされます。

平福の街並み


江戸時代以降、平福は因幡街道最大の宿場町として栄えます。

瓜生原家


江戸時代の町屋が残っています。瓜生原家は鋳物業を営んでいたそうで、1810年に建てられました。

本陣跡


本陣は宿場町で大名や旗本などが宿泊所として指定した家になります。

陣屋門


陣屋門ですが、1万石以下の小藩の城は陣屋と呼ばれ、その邸宅の入口の長屋門を陣屋門といいます。平福は利神城廃城後に松平氏5千石の旗本領となり、代官支配となりました。この陣屋門は1864年に時の代官が建築したものです。

佐用川


佐用川沿いに建物が建てられていて、非常に美しい景観が広がります。

城下町と宿場町の名残りが残る平福の街並み。ぜひ足を運んでみてください。

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