網干を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて網干を歩いてみたいと思います。

網干陣屋跡

大覚寺から街中をさらに歩いていくと、揖保川沿いに出ました。街並みの中にひっそりと佇んでいたのが網干陣屋跡です。複雑な歴史をもつ網干ですが、戦国時代には一時、黒田官兵衛の所領となったこともありました。官兵衛はこの地に陣屋を築き、秀吉を招いて茶会を催したそうです。その時、陣屋の庭の松の木に大きな鶴が巣をかけていたことから、秀吉は陣屋を「鶴松亭(かくしょうてい)」と呼ぶように命じました。後に、この地には丸亀藩の陣屋が建ち、江戸時代の終わりまで網干の丸亀藩領を治めていました。明治維新で陣屋の建物はほとんど取り壊されてしまい、この陣屋門だけがこの地に残されてだんじり庫として使われていました。現在は改築されて資料館となっています。

旧山本家住宅

網干陣屋跡の前の道は西国街道と御津町の港町・室津を結んでいた室津街道です。街道を歩いていくと現れたのが立派な望楼を持つ住宅です。こちらは旧山本家住宅です。最近まで民家として使われていたようなのですが、現在は姫路市の所有となり、月に二回公開されています。ちょうど公開日だったので、中を見学してみることにしました。

旧山本家住宅の中

旧山本家住宅は明治時代頃から建てられた建物が連なっていて、一番目立つ洋館は大正7(1918)年の建築です。内部は楓材が贅沢に使われていて、窓や天井にはステンドグラスがはめ込まれているなど、目を見張るような豪華さでした。

この旧山本家住宅を建てたのは山本真蔵という人物です。山本真蔵はマッチ工場やメリヤス工場で財を成し、それを元手に前々回に旧本店を訪れた網干銀行の頭取を務め、さらには網干町長を務めた近代の網干を代表する人物です。近世までの港町は、近代以降、産業や交通網の変化で衰退していくことが多々あるのですが、ここ網干に関しては、工業化に成功し、近代都市としても発展することになりました。その背景にはこうした人物の存在もあったのでしょう。

望楼から

三階の望楼から網干の街を眺めてみました。室津街道の瓦屋根の街並みが続き、その向こうには薄ぼんやりと姫路城の天守閣を眺めることができます。

揖保川を眺める

旧山本家住宅を出て、揖保川を眺めてみました。古代からの揖保川河口の港町として栄え、近世、近代を発展してきた網干の街には様々な時代が入り混じった景色が広がっています。長い冬が終わり、そろそろ気候の良い季節。網干の街に歴史のロマンを訪ねて歩いてみませんか。

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水の都・徳島を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回・前々回に続いて徳島を歩いてみたいと思います。

西の丸へ降りる

徳島城
の本丸跡から西の丸のほうへと下ることにしました。
東側と比べてこちらは城郭の雰囲気がよく残っています。

西二の丸跡

山中に西二の丸跡の看板を見つけました。西の丸には現在の内町小学校の位置に西御殿があるなど各種設備がありましたが、多くは失われ、森に還っています。

蜂須賀家が江戸時代に渡って城主を務めてきた徳島城ですが、明治に入り廃城令によって大半の建物が取り壊されてしまいました。後には徳島中央公園が整備され、行政機関の建物も造られました。しかし、昭和20(1945)年の徳島大空襲で建物の多くが焼失。徳島城の建物で唯一取り壊しを免れていた鷲の門もこの時に失われてしまいました。前々回紹介した鷲の門は平成元(1989)年に再建されたものです。

沖洲川

徳島城鷲の門からしばらく歩くとひょうたん島と福島を隔てる沖洲川に出ました。助任川から分かれた沖洲川は徳島の市街で複雑に分かれ「水の都」を形成する川の一つとなっています。下流では新町川と合流し、河口付近には徳島と和歌山とを結ぶ鉄道連絡船「南海フェリー」のターミナルがあります。

現在は穏やかなこれらの川ですが、地図を見ればわかるように、徳島市の西側の石井町付近からの吉野川流域は吉野川の本流を中心に大小の河川が複雑に入り組んでいます。中央構造線を流れる四国三郎・吉野川は流域の人々に水の恵みをもたらすと同時に、時に洪水の被害をもたらしました。

福島橋

沖洲川に架かる福島橋は現在も幹線道路が通る徳島にとって重要な橋ですが、洪水などによって何度も流され、橋がない間は渡し船を使うなどでしのいでいました。この地に新しい橋が架けられることになったのは江戸時代の寛永13(1636)年のこと。しかし、暴れ川での架橋は難工事が予想されました。そこで、着工日の亥の刻に通りかかった人を人柱にしようというアイデアが持ち上がりました。当日の亥の刻、通りかかったのは六部(法華経巡礼者)で、住民の懇願により人柱となることを承諾し、棺桶に入って49日間鉦を叩き続けたといいます。そのおかげか、橋は無事に完成しました。その後、何度も橋は架け替えられ、現在はコンクリート製の橋梁になりましたが、現在でも人柱の部分を避けるために北側の歩道は大きくカーブを描いています。

沖洲川を眺める

橋の上から沖洲川を眺めてみました。青々とした川がゆったりと流れ美しい景色です。

徳島にはこのほかにも阿波踊り会館やロープウェイで上る眉山など見どころがたくさん。また、徳島ラーメン阿波尾鶏、豊かな海産物などのグルメも楽しむことができ、山陽沿線からの小旅行にぴったり。現代の徳島を満喫しながら、水の都の歴史に思いをはせてみませんか。

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水の都・徳島を歩く(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、徳島を歩いてみたいと思います。

徳島城博物館

公園内を歩いていると、徳島城博物館に着きました。こちらは徳島市立の施設で、徳島藩や江戸時代を通して徳島藩の藩主を務めた蜂須賀家の資料や美術品を展示しています。

旧徳島城表御殿庭園

博物館に隣接してあるのが「旧徳島城表御殿庭園」。こちらは江戸時代の初めの1600年ころに築かれたという枯山水と池泉回遊式庭園を組み合わせた桃山様式の日本庭園で、徳島城の緑を背景に青々とした松が美しい庭園です。こちらの庭の池の水は城の北側を流れる助任川につながる堀から引いており、海水が混じるとのこと。こんなところからも、水と共に生きた徳島の街の歴史を感じることができます。

本丸へ

博物館の裏手から徳島城の山へ登ってみることにしました。かつて城郭があった山は鬱蒼とした木々に覆われていて、ただの山のようです。ただし、草むらの中には表御殿庭園と同じく独特の青みがかった眉山の石で作られた石垣が顔を出していて、ここが城郭であることを物語っています。

徳島城の歴史は南北朝時代の至徳2(1385)年に、この地の南朝勢力を討った細川頼之が城を築いたことに始まります。水に恵まれたこの地を頼之は中国は黄河流域の渭水(現在の中国甘粛省から流れ陝西省で黄河に合流する川で、流域の渭河平原には古都・西安などの大都市があります)に例えて渭津と呼び、城を渭山城と呼びました。日本の主要都市で中国風の名前の都市と言えば岐阜が思い浮かびますが、徳島もこの当時の呼び名のままであれば「渭津市」などと呼ばれていたのかもしれませんね。

東二の丸跡

山道の途中に「東二の丸跡」という案内がありました。文字通り、この場所には徳島城の東二の丸があったのですが、なんと、徳島城の天守はこの場所にあったそうです。多くの城では天守は城の一番高い場所にあり、徳島城も築城当初はこの上の本丸に天守が築かれていたそうなのですが、江戸時代初めの元和年間に取り壊されたそうで、その後、代替としてこの東二の丸に天守が築かれました。何でこんな中途半端な場所に天守を築いたのかは不明ですが、景観を考慮したとも言われています。

戦国時代に入りこの地を治める者はたびたび代わったのですが、天正10(1582)年に土佐の長曾我部元親が阿波を平定。後に秀吉の四国攻めと四国国分で阿波は秀吉の支配下になり、木津城(現在の鳴門市撫養にあった城)の攻略で功績のあった蜂須賀正勝の息子の家政が城主となり、現在の徳島城を築城。以後、江戸時代を通して蜂須賀家が代々城主を務めました。ちなみに、正勝の娘の黒田官兵衛の息子・長政の最初の正室でした。

本丸跡

山道を上り詰めて本丸跡にたどり着きました。 先述のように、築城当初はここに天守があったのですが、東二の丸に移ってからは広場のようになっていたそうです。

本丸跡からの景色

本丸跡の周りは木々が鬱蒼と茂っていて、思ったほど眺めはよくありません。しかし、木々の合間からわずかに徳島の市街地や眉山を望むことができました。

中国・渭水にもなぞらえられた風光明媚な水の都・徳島ですが、その歴史は美しく楽しいばかりではありませんでした。もう少し、水と共にあった徳島の街を歩いてみたいと思います。

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間もなくオープン! 姫路城へ


暖かくなってきたと思ったら雪がちらつくこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

明日はいよいよ姫路城大天守のグランドオープンです。
それに先立って、今日は完成記念式典等が行われ、航空自衛隊のブルーインパルス祝賀飛行もあるとのことです。5年にも及ぶ修理がついに完了したわけですから、何だか感慨深いものがありますね。そんなお祭りムードの姫路を一足先に訪れてみました。

みゆき通

山陽姫路駅
から姫路城へ続くみゆき通を歩いてみると、もともと賑やかな商店街は姫路城のPR一色でした。アーケードには大きな幕が掲げられています。
大河ドラマ「軍師官兵衛」が終わってしまったところですが、こうして間を置くことなく大きなイベントを続けられたのは見事の一言です。

大手門と姫路城

商店街を歩いてたどり着いたのがもはやお馴染みの姫路城大手門。お堀の向こうにそびえる姫路城大天守は工事施設もすっかり撤去され、眩しいくらいの白色に輝いていました。

ありし日の「天空の白鷺」

こちらは工事見学施設「天空の白鷺」があった頃に撮った写真です。
大天守の屋根を間近に見たことが、今となっては幻のようです。

姫路城大天守保存修理工事は平成21(2009)年から始まりました。翌年から大天守を完全に覆う素屋根が設けられ、さらに翌年の平成23(2011)年から平成26(2014)年まで、工事見学施設「天空の白鷺」が設けられました。今考えてみれば、この「天空の白鷺」から眺めた光景こそ、姫路城の歴史の中で貴重な瞬間だったのかもしれません。

撮影ポイント

姫路城大天守を美しく撮影できるポイントとして知られているのが、 三の丸広場の西側、茶店と迎賓館の間にある石段です。大天守を斜めから見上げることになるので、より白さがひき立って見えます。また、もう間もなくの桜のシーズンには満開の桜と真っ白な大天守とを写真に収めることもできそうです。姫路城の写真でよく見る構図と言ってしまえばそれまでですが、グランドオープンのこの機会に、是非ご自分のカメラで撮影してみてはいかがでしょうか。

姫路城に行ったことがない方はもちろん、姫路城なら行ったことあるよという方も、新しくなった姫路城を楽しんでみませんか?

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西の比叡山・書写山圓教寺へ(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回・前々回に引き続き、書写山圓教寺を巡っていきたいと思います。

十地坊跡?

「西谷」の外れの林の中にこんな案内がありました。矢印の先には急な山道が続いていますが、ここは執念で上ることにします。

十地坊跡地

山道をのぼりつめてたどり着いたのが防火用貯水槽のある空地。
急に現代的なものが現れて拍子抜けしてしまうところですが、貯水槽の壁面には戦場の陣幕のようなものが張り付けてありました。こちらは「十地坊」と呼ばれ、羽柴秀吉・黒田官兵衛が播磨攻めの際に設けた陣地の跡と言われています。

秀吉と官兵衛がこの地に陣を築いたのは天正6(1578)年のこと。前年の加古川評定の決裂により、別所氏をはじめ播磨の諸侯が毛利派につき秀吉軍に反旗を翻したため窮地に立たされていました。西の毛利、東の別所に対抗するため、官兵衛の進言により、秀吉軍は見晴らしがよく施設の整った書写山に陣を移しますが、驚いたのは書写山の僧侶たち。兵糧の提供するなどで寺を守っていたところへ押し寄せてきた大軍に信長の「比叡山焼き討ち」の再来かと上へ下への大騒ぎになったそうです。秀吉の命で僧侶を殺害することはなかったものの、一部の兵士によって仏塔やお堂が破壊されてしまいました。

十地坊から置塩城を眺める

陣幕の正面は木が伐採されていて、景色が見えるようになっていて、麓の菅生川沿いの集落が望めました。正面の山は置塩山と呼ばれる山があります。この山の上には播磨守護・赤松氏の子孫の赤松則房が城主を務めていた置塩城がありました。秀吉軍に従った赤松則房は西を監視する役割を担い、書写山の秀吉軍とは狼煙などで連絡を取り合っていたそうです。

本多家廟屋

再び三之堂の並ぶ広場に戻ります。
広場の端に土塀で囲われた一角がありました。こちらは江戸時代の初めに姫路城主を務めた本多氏の墓所です。戦乱の世が終わると圓教寺は歴代の城主の庇護を受け、西の比叡山として広く信仰を集めることになりました。明治以降は荒廃し、摩尼殿が焼失するなど苦難の時代を経ることになりますが、山上の中世の雰囲気を残す堂宇は趣があり、先述のように、現在は信仰だけでなく観光名所としても広く注目を集めるスポットになっています。

山上駅から

帰途にロープウェイの山上駅から麓を眺めてみました。
書写山圓教寺の見どころはまだまだ多く、ブログ上ですべてを伝えるのはなかなか困難です。
関心を持たれた方は是非、ロープウェイに乗って書写山圓教寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

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西の比叡山・書写山圓教寺へ(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、姫路の書写山圓教寺を歩いてみたいと思います。

圓教寺摩尼殿

山道を歩いていくと急に周りが開け、巨大な建物が姿を現しました。
こちらは圓教寺摩尼殿、書写山に数ある堂宇の中でも象徴的な建物です。
この辺りは書写山の中でも「中谷」と呼ばれる中心エリアです。ただし、摩尼殿の周辺には茶店がある程度で観光地とは程遠い雰囲気です。ちなみに、ロープウェイの山上駅から仁王門などがあるエリアは「東谷」と呼ばれるとのこと。このあたりの名称は何だか比叡山延暦寺東塔・西塔・横川を思わせますね。

圓教寺摩尼殿から

摩尼殿は京都・清水寺本堂と同じ懸造りの建物で、お堂に上がってみると結構な高さがあります。この摩尼殿は焼失後、昭和8(1921)年に再建されたものですが、近代の建築とは思えないような風格があります。

書写山圓教寺は比叡山延暦寺と同じ天台宗の寺院です。その歴史は非常に古く、康保3(966)年に性空上人なる天台宗の僧侶が創建したとされています。当初は性空上人の庵があるのみだったようですが、後に摩尼殿となる如意輪堂が築かれ、寛和2(986)年にこの地を行幸した花山天皇「圓教」の寺号を与えるとともに米100石を寄進。その後にも多くの皇族や貴族の寄進し、その寄進をもとに数々の堂宇の整備が行われて大寺院に発展しました。

西谷の様子

摩尼殿の裏手から山道を歩いていくと、「西谷」と呼ばれるエリアに着きました。こちらで目立つのは広場をコの字型に囲む「常行堂」「食堂(じきどう)」「大講堂」です。いずれも巨大な建物で、深い山の中にこれだけの建物があると思うと驚いてしまいます。中世寺院の雰囲気が残るこのエリアはドラマや映画のロケにも使用されていて、大河ドラマ「軍師官兵衛」や映画「ラストサムライ」の撮影でも使用されました。

食堂

コの字型の正面にそびえる食堂は特に迫力があり、長い二階建ての建物は「ビル」とでも言いたくなります。この食堂はその名の通り僧侶が寝食する住居だったそうです。

食堂からの眺め

食堂は内部を見学できるようになっています。急な階段を上って二階に上がると先ほどの広場を見下ろすことができました。 ちなみに、一階では写経の体験ができます。

この巨大な建物からわかるように、中世の圓教寺は多数の僧侶を抱え、様々な面で播磨の情勢に大きな影響を与える勢力でした。次回は境内を歩きながら中世の圓教寺について迫ってみたいと思います。

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西の比叡山・書写山圓教寺へ(前編)


雪の舞う寒さ厳しいこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路駅前

今回訪れたのは姫路。
ここから市街地の北にある書写山圓教寺を目指したいと思います。
神姫バスのバスターミナル工事に伴い移設された停留所から書写駅行きのバスに乗ることにしました。

書写山ロープウェイ

姫路駅から25分ほどで終点の書写駅に到着しました。
こちらから書写山ロープウェイに乗ることに。

書写山ロープウェイは姫路市営のロープウェイとして昭和33(1958)年に開業しました。現在は神姫バスが運行を受託しています。
ちなみに、日本で同時期に開業したロープウェイは多く、山陽電車沿線の須磨浦ロープウェイも書写山の一年前の昭和32(1957)に開業しています。ちょうどこの時期に高度経済成長の進展とともに観光需要が高まったことから、ロープウェイの建設ラッシュが起こったようです。

ロープウェイからの眺め

ロープウェイからは姫路の街並みや遠く瀬戸内海が一望できます。
残念ながら、姫路城は山の陰に当たるために見ることができないそうですが、それでも十分な絶景です。眼下には、書写山の山並みが続き、木々の合間には細い山道が見えます。ロープウェイの開業前はこの山道以外に交通手段はなかったはずですし、苦労がしのばれます。

山上駅から

数分で山上駅に到着。駅から山道を歩いていくことに。
意外と険しい山道で、なかなか大変です。道沿いには廣峯山を思い出す丁石が立ち並んでいました。
ちなみに、山道を歩くのが辛い方には山上駅付近から送迎のマイクロバスが出ています。

仁王門

木立の中に忽然と現れたのは立派な仁王門。ここからいよいよ書写山圓教寺の境内です。次回、書写山を歩いてみたいと思います。

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姫路・男山界隈を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、姫路城の北西にある男山界隈を歩いてみたいと思います。

男山への参道

趣のある街並みを歩き、男山のふもとにたどり着きました。
山陽姫路駅から結構歩いたところへ、この急な階段が立ちはだかります。
早くもくじけそうになりますが、 改めて体育会系歴史部という設定を思い出し、気合で上ることに。

男山千姫天満宮

山の中腹に小さな神社がありました。
こちらは男山千姫天満宮と呼ばれる神社です。
奇妙なネーミングですが、男山に千姫が築いた神社です。

千姫は徳川家康の孫で、豊臣秀頼の正室でした。大阪夏の陣で大阪城が落城した際に救出され、後に桑名藩主の本多忠政の嫡男・忠刻に嫁ぎます。本多忠政が姫路藩主に転じた際に姫路へ移ることになりますが、忠刻が結核で亡くなった後は江戸城へ移り出家しました。
この天満宮は千姫が忠刻とともに姫路に移った後の元和9(1623)年に創建されました。社殿が参道に対して直角に配置されているのですが、これは千姫の居所があった姫路城西の丸の化粧櫓に向けて建てられているとのこと。

男山八幡宮

千姫天満宮からさらに階段を上ると、男山八幡宮にたどり着きました。
こちらの神社の歴史は古く、貞和元(1345)年に赤松貞範が姫山に城を築いた際に京都の石清水八幡宮から分霊されたものです。
ちなみに、男山があるのならその対になる山もありそうですが、地図を眺める限りは見当たりません。 江戸時代に記された地誌『播磨鑑』によると、昔、廣峯山麓にあった長者屋敷から男女の旅人が逃げだし山に逃げ込みました。それから、男の逃げ込んだ山を「男山」、女の逃げ込んだ山を「姫山」と呼ぶようになったとのこと。ということで、男山の対は現在姫路城のある姫山にあたるようです。

男山の山頂

男山の山頂に上がると、小さな公園がありました。こちらは男山配水池公園。昭和6(1931)年に設けられた男山配水池を整備した公園です。この配水池は姫路市内では最古の配水施設とのことで、近代化産業遺産に指定されています。中世~近世の史跡と近代の史跡が同居しているのはなかなか興味深いですね。

男山から眺める姫路城

公園からは姫路城天守閣と姫路の街並みを望むことができます。
なかなか厳しい山登りでしたが、その疲れが吹き飛ぶような絶景です。
大手前からではなかなかわかりにくいのですが、こうして角度を変えて姫路城を眺めてみると、山の上に築かれた城というのがよくわかりますね。

姫路城天守閣の公開再開はもう間もなく。
久しぶりの天守閣を訪問の際は、併せて近くの男山を訪れてみてはいかがでしょうか。

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姫路・男山界隈を歩く(前編)


厳寒の候、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

姫路城

今回訪れたのは姫路
姫路城三の丸広場に来てみれば、素屋根が解体され、工事設備も粗方撤去された姫路城天守閣が美しい姿を現しています。
天守閣の公開再開はもう間もなく、今年3月の予定です。

千姫の小径

今回は姫路城ではなく、お城の北西にある男山に向かうことに。
好古園の前を過ぎ、中堀と船場川の間を通る「千姫の小径」と呼ばれる遊歩道を歩いていくことにします。ここは姫路城のお堀を歩いた時にも訪れたところですね。土の遊歩道は気持ちいいのですが、今の季節はちょっと寒いです。

清水橋

「千姫の小径」を歩いて、清水橋に到着しました。ここから城内を出て街中を歩いてみたいと思います。

小利木町界隈

歩いてみたのは小利木町と呼ばれる界隈。
新しい住宅や駐車場が目立つのですが、所々に城下町の趣を残す建物があります。

姫路の城下町は、まず姫路城のある姫山の南側、現在の姫路の中心市街の地区や東部に向かって発展しました。 今、歩いている姫路城の西側が城下町として整備されたのは江戸時代の本多忠政が姫路城主だった頃、1610年代後半に船場川が荷運び用の水路として整備されてからでした。船場川を行きかう高瀬舟の船着き場ができ、海産物や塩、炭、材木といった商品が取り扱われるようになり、数々の市場が生まれたこの界隈は商品経済の中心として発展しました。今は静かな住宅地となっていますが、小利木町の南側には「材木町」といういかにもな地名も残されています。

山野井町界隈

姫路文学館の近くにも細い路地の街並みが続きます。
周辺には「鷹匠町」という地名もあり、職人の街という面もあったのかもしれません。
街並みの向こうに目指すこんもりとした山が見えてきました。目指す男山に違いありません。

次回は男山に上ってみたいと思います。

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有馬温泉に秀吉と官兵衛の足跡を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、有馬温泉を巡ってみたいと思います。

天神泉源

温泉街の路地を歩いて行くと、温泉街を見下ろす天神泉源にたどり着きました。
有馬の街中には多数の泉源があり、こちらはその一つ。その名の通り、有馬天神社の境内にあります。もくもくと噴き出す湯気がいかにも温泉地と言う感じですね。

温泉寺

天神泉源から古い建物が建ち並ぶ複雑怪奇な路地を通り抜けて温泉寺にたどり着きました。
こちらの寺院は神亀元(724)年に行基が開いたと言われ、古い歴史を持っています。観光案内などでは「温泉寺」となっていますが、正式な名称は「温泉禅寺」といい、黄檗宗の禅宗寺院です。

古い歴史をもつ有馬温泉ですが、幾度となく存亡の危機にさらされました。前回紹介した慶長伏見地震もその一つです。
そのほかに、この温泉寺に伝わる縁起によると、承徳元(1097)年に大規模な土砂災害があり、有馬の街は壊滅。以後、100年近くの間、街は消滅してしまったと言われています。この有馬を再建したのが大和国吉野郡川上村の高原寺の僧・仁西でした。熊野権現の導きで土砂に埋まった温泉を発見した仁西は十二の宿坊を開き、川上村の平家落人を招いて経営させました。これが現在に残る温泉宿「有馬十二坊」の始まりと言われています。
ただし、仁西は記録が非常に少ない上に、当の川上村には高原寺という寺院も存在せず、謎の人物とされています。また、実際の記録で「坊」とつく旅館が現れたのはこの仁西の話の200年以上後の室町時代中頃ということで、この話の信憑性は薄いとの説もあるとのこと。

太閤の湯殿館

温泉寺の奥には極楽寺という寺院がありました。この寺院の境内には「太閤の湯殿館」という博物館があり、館内では阪神淡路大震災の際に倒壊した極楽寺の庫裏の下から発見されたという「湯山御殿」の遺跡を観ることができます。

有馬温泉を気に入り、幾度となく湯治に訪れた豊臣秀吉慶長伏見地震の際に湧出した新たな泉源に湯山御殿の造営を始めました。まさに「御殿」というような贅を尽くした建物だったそうですが、病に倒れた秀吉は湯山御殿の完成を見ることなくこの世を去りました。以後、1995(平成7)年の阪神淡路大震災後の発掘まで御殿は幻の存在となりました。館内で秀吉がついに入ることのなかった岩風呂の遺構を見下ろすと、何だか考えさせられるものがあります。

太閤の湯

温泉街の外れには「太閤の湯」という日帰り温泉施設があり、館内には湯山御殿の岩風呂を模した温泉があります。「太閤の湯殿館」で遺跡を見た後にこの温泉に入ると何だか妙な気分になってしまいますね。

官兵衛古道

「太閤の湯」の前庭には「官兵衛古道」なる遊歩道がありました。「太閤の湯」のリニューアルに際して設けられたそうで、歩道上には黒田官兵衛ゆかりの地名がつけられています。

有岡城!?

ちょっと驚くのが「有岡城」。なんと、官兵衛が幽閉された有岡城の土牢が再現されていました。この土牢から脱出した官兵衛は有馬温泉で体を癒したそうです。有馬温泉の効果があれば十分完治できるはずでしたが、三木合戦の報を聞いた官兵衛は温泉を飛び出し、戦場へ馳せ参じていきました。完治しなかった左足は曲がったままとなってしまいます。

再び温泉街を歩く

夕暮れ、温泉街へと戻ってきました。
観光客がそぞろ歩く中、過去から現代まで、多くの人を癒してきた有馬温泉を後にすることにしました。

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