せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

梅は岡本・摂津岡本を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、岡本を歩いてみたいと思います。

岡本八幡神社

住宅地の坂道を上っていくと、神社がありました。こちらは岡本八幡神社です。

岡本八幡神社の境内

木々に囲まれた境内は意外と広々としていました。岡本八幡神社の創建時期はわかっていないようですが、岡本地区の鎮守として信仰を集めてきたそうです。

岡本梅林公園

岡本八幡神社から少し坂を下ったところに岡本梅林公園がありました。阪急電車の踏切の名前になっていたのはこの梅林でしょうか。

今や住宅地として知られる岡本ですが、かつては「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗丹波」と言われるなど、梅の名所として有名でした。この地に梅が植えられた時期はわかていませんが、豊臣秀吉が観梅に訪れた記録もあるようで、中世には梅の名所として知られていたようです。岡本梅林は近代に入ってからも多くの観梅客で賑わい、春には東海道本線や阪神電車が観梅客向けの臨時駅を設けていたようです。明治時代の地図を見ると、山沿いに広大な梅林が広がっていることがわかります。

岡本梅林の梅

岡本の梅は今が見ごろです。公園の中は梅の香りでいっぱいでした。

多くの観梅客で賑わった岡本ですが、昭和13(1938)年の阪神大水害で壊滅的な被害を受けてしまいます。水害で梅林のあった山は崩壊し、梅の木の多くが失われてしまいました。さらに昭和20(1945)年の神戸大空襲でわずかに残った梅も焼失。跡地は住宅地として開発され、梅林は失われてしまいました。戦後すぐの地形図を見ると「岡本梅林跡」という何とも寂しい表記があるのですが、程なく表記もなくなり、岡本の梅林は忘れられていきました。その梅林が復活したのは昭和50年代のことでした。保久良神社の境内に梅が植えられ、後にこの梅林公園が設けられました。毎年梅まつりが開かれるなど、かつての賑わい取り戻しつつあります。

梅と神戸の街

高台にある梅林公園からは梅の花越しに神戸の街を眺めることができます。

岡本の梅は3月上旬頃まで見ごろです。賑わう梅林に「梅は岡本」を感じてみてはいかがでしょうか。

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梅は岡本・摂津岡本を訪ねて(前編)

投稿日:



明るい日差しに春を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

岡本駅

今回降り立ったのは阪急電車の岡本駅
駅の周りは六甲山地を望む住宅地が広がっています。

本山村役場跡碑

住宅地の中にあったのが本山村役場跡の石碑です。

現在は「岡本」として独立した地域となっているこの辺りですが、もともとは武庫郡本山村の一地区でした。戦後、本山村が神戸市に吸収されて東灘区の本山町となり、さらに本山町から独立した岡本という地名となって今に至っています。

保久良の丘を望む

阪急電車の踏切の向こうに六甲山に続く山々を望むことができました。こちらの山は「保久良山」と呼ばれていて、山の上には保久良神社があります。「岡本」の地名もこの保久良の丘の麓にある村だったことからついた名前とも言われています。

新梅林踏切道

そんな保久良を望む踏切の名前は「新梅林踏切道」です。
梅林とは…?

今は住宅地の岡本ですが、かつては今とは異なる景色が広がっていました。
次回はもう少し岡本を歩いてみたいと思います。

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北野坂から二宮を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて北野坂から二宮を歩いてみたいと思います。

二宮温泉

二宮の街中を歩いていると二宮温泉なる入浴施設がありました。源泉は新神戸駅近くですが、中央区の街中に温泉施設があるとは意外ですね。

二宮神社

さらに街中を歩いていくと、神社がありました。こちらは二宮神社です。「生田裔神八社」の一宮神社に続く二柱目ですが、創建時期などははっきりわかっていないとのこと。

前回説明しましたように「生田裔神八社」は生田神社を取り囲むように配置された神社で、北斗七星を表すという説もあります。神社は生田川と湊川(旧湊川)の間に配置されているはずですが、この二宮神社はフラワーロードの東側…、つまり、生田川の外に配置されています。なぜこのような配置になったのかはよくわかっていないようでずが、街中に古代の謎が残されているというのもロマンのある話ではあります。

二宮神社の境内

街中の神社ですが、境内は広々としています。古い地図を見ても存在感はあり、古くから大きな神社であったことが伺えます。

新生田川

二宮神社から東に歩くと、新生田川のほとりに出ました。生田川の付け替えにより、結果的に二宮神社も生田川の西側に収まることになったのは、たまたまなのでしょうか。

神戸の都心で少し謎のある歴史巡りをした後は三宮に戻ることにしました。

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北野坂から二宮を歩く(中編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、北野坂を歩いてみたいと思います。

一宮神社

北野坂から横道に逸れた街中にあったのが一宮神社です。神戸の市街地に一から八まである神戸八社の一つで、「一」のつけられた神社ですが、街中にひっそりと佇んでいました。

一宮神社の境内

境内は意外に広く、ゆったりとしています。外国人観光客の方の姿もありました。

神戸八社は正式には「生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)」といいます。生田神社を取り囲むようにここ一宮神社から西に向かって数字が大きくなるように配置されていて、一説には北斗七星を表しているとも言われています。八社のうちの三宮神社は神戸の都心の地名となっていますね。

六甲山地を望む

一宮神社を出て加納町の交差点の歩道橋から六甲山地を眺めてみました。ビルの合間から青々とした山がのぞく光景は神戸ならではですね。

二宮

歩道橋の傍らには少し古びたアーチが架かっていました。この先は二宮町です。

次回はもう少し、二宮を歩いてみたいと思います。

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北野坂から二宮を歩く(前編)

投稿日:



早秋の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

三宮

今回降り立ったのは神戸の都心の三宮。
駅前では阪急神戸三宮駅の新駅ビルが工事中です。

北野坂

三宮から繁華街の中を貫く北野坂を歩くことにしました。

北向地蔵

繁華街の雑居ビルに埋め込まれるようにして佇んでいるのは北向地蔵です。

現在は三宮の東側を流れている生田川(新生田川)ですが、かつてはこの傍のフラワーロードを流れていました。昔、その生田川が大雨で増水し、堤防が決壊しかかっていたところをこのお地蔵さんが防いだという言い伝えがあります。お地蔵さんの名前の「北向」というのはかつての堤防があった方を向いていることに因んでいるとのこと。

北野坂の眺め

北向地蔵からさらに歩くと、六甲の山々が近づいてきました。街路樹とビルの合間からは北野異人館街の風見鶏の館が見えます。神戸らしい印象的な景色ですね。

神戸にいるとあまり訪れないかもしれない北野坂、もう少し歩いてみたいと思います。

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塚口御坊を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、塚口を歩いてみたいと思います。

長屋門のある道

塚口寺内は比較的最近まで寺内町の姿が残っていたため、今も風情ある景色が続いています。町中には長屋門のある立派な家も見かけました。

寺内町の風情

白い塀の続く道は周辺の住宅地とは違った趣ですね。

塚口御坊跡

「寺内町」
というからには中心となる寺院があるはずです。それがこちらの正玄寺です。かつてはこの場所に「塚口御坊」がありました。

塚口御坊が建立されたのは室町時代の応永16(1409)年のことです。性曇上人なる人物がこの地を訪れた際に病気になったためひと月ほど滞在。その時に入信した裕信なる人物によって御堂が建立されたことに始まります。その後、門前町の周囲に土塁を巡らし、寺内町としての姿を整えていくことになりました。

北町門跡

正玄寺から住宅地を歩いていくと、北町門跡に出ました。こちらら塚口寺内の北の端です。

強固な防衛設備を持った塚口寺内は、有岡城の戦いの際は有岡城の出城として使われ、織田信長軍が進攻してからは織田軍の拠点としても使われることとなり、城としても機能することになりました。近世に入ってからもこの土塁はしばらく残っていましたが、もはや戦闘に使われることはなく、一部が崩れ始めたことから撤去されてしまったそうです。今ではわずかに残った土塁に名残を感じるのみです。

塚口神社

町はずれまで歩くと、立派な神社がありました。こちらは塚口神社です。創建時期は不明ですが、一説では奈良時代の建立とも言われ、非常に歴史のある神社です。寺内町が生まれる前からこの地にあった神社は、大きく姿を変えてきた町の姿を今も見守っているのでしょう。

塚口というと、あまりイメージがわきにくいところではありますが、歩いてみると発見がありますね。
夏の日差しを浴びる神社を後にすることにしました。

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塚口御坊を訪ねて(前編)

投稿日:



梅雨が明け、夏の日差しが差し込むこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急塚口駅

阪急電車で到着したのは塚口駅

塚口の街並み

この辺りの街は平野の中の住宅地で碁盤の目のような整った町割りになっているのですが、この塚口界隈は道が複雑に入り組んでいます。道沿いには飲食店や商店が建ち並んでいました。

南町門跡

阪急神戸本線沿いに歩いていくと、住宅地に出ました。こちらも道は入り組んでいます。住宅地の中に、不自然な空間があり、祠が建っていました。こちらは南町門跡の祠です。さて「門」とは一体何のことなのか?

現在は住宅地となっている塚口ですが、かつてここは「塚口寺内」と呼ばれ、「塚口御坊」を中心とした寺内町でした。応仁の乱の際は土塁を築いて城郭のような姿に整えられ、実際、天正6(1578)年に荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたことに始まった有岡城の戦いでは、この塚口寺内は伊丹の有岡城の出城として使われたそうです。このことから、塚口寺内は「塚口城」とも呼ばれています。現在、当時の土塁はほとんど残されていませんが、塚口寺内の南側の門の跡にはこうして祠が残されています。

東町門跡

南町門跡から東に向かって歩いていくと、東町門跡に着きました。ここにも祠がありますが、南町門跡と違ってこちらは高い土手の上にあります。この土手が塚口寺内の土塁の跡とされています。近づいてみると意外と高さがあり、強固な守りであったことをうかがわせます。

山陽沿線で同じような町と言えば英賀が思い浮かびますが、英賀と比べて塚口は比較的最近まで寺内町の姿が残っていたため、今も面影を感じることができます。次回はもう少し塚口を歩いてみたいと思います。

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歌劇と温泉の町・宝塚を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて宝塚を歩いてみたいと思います。

武庫川と阪急

花の道の終わりから道なりに歩いていると武庫川に架かる橋に出ました。阪急今津線が並行して川を渡っています。右側は宝塚大劇場…かつての宝塚新温泉です。では、元々の宝塚温泉はというと、左側のマンションが建ち並んでいるところです。

宝塚温泉は今

橋を渡って武庫川の右岸側を歩いてみることに。某町歩き番組では「娯楽の殿堂」として紹介された宝塚ですが、今では住宅地としても人気で、高層マンションが建ち並んでいます。この辺りが元々の宝塚温泉ですが、見る限り温泉地の面影はありません。

横道

ただし、横道を見てみると何となくそれっぽい雰囲気もありました。

前回も見てきましたように、宝塚温泉は明治に入ってから整備された新しい温泉です。ただし、大阪から近く交通機関も便利であったことから発展し、最盛期には70軒もの温泉旅館が建ち並んでいたようです。今の有馬温泉のような位置付けだったのでしょうか。非常に栄えた宝塚温泉ですが、戦後、レジャーの多様化などで温泉客は減少し、阪神淡路大震災の被害もあって、現在はわずかな旅館が残るのみです。

宝塚温泉の街並み

マンションが建ち並ぶ街ですが、対岸ではあまり見かけないカラオケや居酒屋があって、わずかに温泉地の賑わいを今に伝えています。

宝塚温泉の碑

武庫川に架かる橋のたもとに宝塚温泉の碑が残っていました。この碑の周辺には温泉宿があり、「湯本台公園」なる公園もあって、温泉地らしい雰囲気がありました。

再び武庫川を眺める

武庫川に架かる橋から眺めると、川を挟んで大劇場と温泉旅館が建ち並ぶ新旧の宝塚の景色が広がります。温泉地から歌劇の町、そして、住宅都市として、姿を変えながらも人を惹きつけてきた宝塚の街を眺めることができました。

緩やかにカーブを描いた武庫川の橋を渡って、阪急宝塚駅に戻ることにしました。

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歌劇と温泉の町・宝塚を歩く(前編)

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梅雨空の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急宝塚駅

今回のスタートは阪急宝塚駅

花の道

宝塚駅から伸びるのは「花の道」です。この道、単なる遊歩道ではなく、土手のように周りから一段高くなっていますが、まさにその通りでここはかつて傍を流れる武庫川の堤防でした。

宝塚大劇場

花の道の途中にあるのが宝塚大劇場です。宝塚といえば、全国の人が思い浮かべるのはここでしょうね。

宝塚といえば宝塚歌劇の街ですが、それは新しい時代のこと。かつては有馬温泉へ向かう街道の途中の集落でした。宝塚に温泉が見つかったのは奈良時代とも鎌倉時代とも言われていますが、温泉地として整備されだしたのは近代に入った明治17(1884)年の「発見」からで、明治後半には阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)と箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)が開業して大阪に近い行楽地として栄えることになりました。ただし、温泉地として栄えたのは武庫川の右岸。左岸には湿地が広がっていました。明治44(1911)年には箕面有馬電気軌道がここに宝塚新温泉を開業。温泉内の娯楽として歌劇が公演されるようになり景色は一変し、宝塚は小さな温泉地から歌劇の町として知られるようになりました。町のイメージが非常に良いことから、今では住宅地としても人気ですね。

宝塚ファミリーランド跡

昭和生まれの私には「宝塚」といえば家族で訪れた宝塚ファミリーランドが思い浮かぶところですが、平成15(2003)年に閉園してしまい、跡地には商業施設やマンションが建っていました。

近代から現代にかけて、行楽地として発展してきた宝塚。次回はもう少し歩いてみたいと思います。

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秀峰を望む弓弦羽の里を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、阪急御影駅から歩いてみたいと思います。

綱敷天満神社

高い石屋川の土手の傍らに神社がありました。こちらは綱敷天満神社です。何だか聞いたことがある名前ですね。

綱敷天満神社の由緒を見ると、延喜元(901)年、菅原道真が左遷され、九州の太宰府に向かう途中、この地にあった石屋村の祖・山背王を訪ね、その際に石の上に円座のように綱を置いて招いたことが神社の名前の由来とのこと。経緯は若干異なりますが、綱を円座のように敷いて、その上に道真が座った…というあたりは須磨の綱敷天満宮と同じですね。同様な伝説は各地にあるのかもしれません。

綱敷天満神社の境内

境内は広いわけではありませんが、何だか変わったものがありました。細い柱の鳥居のようなものに綱が巻きつけてあります。こちらは毎年一月に行われる綱打祭で使われる注連柱(しめばしら)と綱で、この注連柱を潜ることで無病息災に暮らすことができるとのこと。

石屋川隧道跡

綱敷天満神社から歩いてJRの高架を潜ります。高架下には「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道跡」と書かれた石碑がありました。この地に鉄道が開業したのは明治10(1877)年のこと。当時の鉄道は天井川の石屋川よりも低い地平を走っていました。蒸気機関車では急な坂道を上ることができないため、道路橋のように石屋川を乗り越える橋を設けることもできず、川の下を通るトンネルが設けられることになりました。これが日本で最初の鉄道トンネルとのことです。このトンネルは昭和51(1976)年、高架化が完成するまで使用されていましたが、現在は跡形もありません。

御影公会堂

坂道を下っていくと、目立つ建物が見えてきました。こちらは御影公会堂です。昭和7(1932)年に完成したこちらは御影のシンボルのような建物ですね。

六甲山地を眺める

御影公会堂から少し下ると、石屋川の向こうに六甲山地の景色が広がりました。前回、弓弦羽神社で紹介した秀峰・弓弦羽嶽とは、実は六甲山のことであると言われています。六甲山自体は雲と木々で望むことはできないのですが、坂の町の向こうに峰々が続くこの景色は美しいですね。

ここから石屋川沿いに少し坂を下ったところにある阪神電車の石屋川駅から六甲山地を眺めつつ帰途に就くことにしました。

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