世界遺産!古市古墳群を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、古市古墳群を歩いてみたいと思います。

古室山古墳

誉田御廟山古墳
から西名阪自動車道の高架をくぐると木々の茂った丘がありました。公園かと思いそうになりますが、こちらも古墳で、古室山古墳と言います。

古室山古墳からの景色

古室山古墳は大型の前方後円墳で、世界遺産にも指定されていますが、被葬者はわかっておらず、陵墓には推定されていません。そのため、古墳に上ることができます。高さ15mになる古墳の上からは大阪平野を眺めることができました。

百舌鳥・古市古墳群が築かれた頃、「倭国」と呼ばれていた日本の政治の中心は大和盆地にあったとされています。そのためか、古墳時代の初期の古墳は卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳を始め大和盆地内に築かれていました。しかし、古墳時代の中期になると、古墳は大和川を下り、古市、百舌鳥に築かれるようになりました。しかも、この時期に築かれた古墳は誉田御廟山古墳や大仙陵古墳といった巨大なものが増えてきます。この理由には諸説があるようですが、古市や百舌鳥は、当時、周辺国が貿易に訪れた大阪湾岸から大和盆地への通り道に当たります。諸外国に権力を示すためにこの地に巨大な古墳を築くようになったとも言われています。

仲津山古墳

古室山古墳から住宅地を歩くと、大きな古墳が現れました。こちらは仲津山古墳です。応神天皇の皇后の仲姫命の陵墓とされ、古市古墳群では応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳に次ぐ大きさです。築造時期は5世紀の初めとされていますが、宮内庁の管理にあるため、詳しいことはわかっていません。

市ノ山古墳

仲津山古墳からは近鉄の線路を越えて、市ノ山古墳にたどり着きました。こちらは允恭天皇の陵墓とされ、やはり宮内庁に管理されています。古市古墳群では四番目の大きさの前方後円墳です。古市古墳群で巨大な古墳はこれで回り終えたこととなります。

鍋塚古墳

市ノ山古墳から近鉄南大阪線の土師ノ里駅前を通り、駅前にある鍋塚古墳を訪れてみました。駅前の公園のような小さな方墳ですが、この古墳も世界遺産に指定されています。ただし、陵墓には推定されていないため、墳丘に上ることができました。

鍋塚古墳からの眺め

鍋塚古墳からは藤井寺の街並みと、先ほど訪れた仲津山古墳のこんもりとした木々を眺めることができました。

古市古墳群を巡る旅はこれで終わりです。
なぜこの地にこれほど多くの、そして、巨大な古墳が築かれたのか、諸説があり、本当のところはよくわかっていません。先述したように、諸外国に政権の力を示すためとも言われていますが、この地に古代王朝があったという説もあります。
秋も深まる頃、古代に思いをはせながら、世界遺産を巡ってみてはいかがでしょうか。

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世界文化遺産!古市古墳群を歩いて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、古市古墳群を歩いてみたいと思います。

辛國神社

葛井寺の近くにあったのが辛國神社です。5世紀の創建と伝わる古社で、物部氏の氏神を祀ったのが始まりとされています。葛井寺とともに、この地域が古代の豪族たちの拠点だったことを感じることができますね。

岡ミサンザイ古墳

辛國神社から住宅地を歩いていくことにします。家並みの合間にこんもりとした緑が見えてきました。こちらは岡ミサンザイ古墳です。墳丘の長さは245mにもなる巨大な前方後円墳です。

拝礼所より

周濠を回り込み、前方部にある拝礼所から古墳を眺めてみました。
第14代仲哀天皇の陵墓とされていて、現在は宮内庁の管理にありますが、被葬者については諸説があり、雄略天皇の陵墓であるとの説もあるそうです。

世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」を構成する古市古墳群は羽曳野市と藤井寺市に跨る古墳群です。古墳の多くは古墳時代中期から後期の5~6世紀に造営されたもので、最大の誉田御廟山古墳をはじめ23基もの古墳が世界文化遺産に登録されているほか、数多くの古墳が点在しています。

誉田御廟山古墳

岡ミサンザイ古墳からしばらく住宅地の中を歩くと、誉田御廟山古墳がありました。応神天皇の陵墓とされるこの古墳は墳丘の長さが425mにもなり、古市古墳群では最大の古墳です。日本でも百舌鳥古墳群の大仙陵古墳に次ぐ第2位の大きさで、山陽電車沿線の五色塚古墳と比べると倍以上の大きさになる巨大な前方後円墳です。

誉田御廟山古墳を眺める

拝礼所から誉田御廟山古墳を眺めてみますが、大きすぎてよくわからない…。周囲を中提に囲まれた誉田御廟山古墳を地上から眺められる場所は少なく、それがより一層神秘的な雰囲気を高めているような気がします。

最大の誉田御廟山古墳を訪ねてみましたが、古市古墳群はまだまだ広がっています。次回も古市古墳群を歩いてみたいと思います。

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世界文化遺産!古市古墳群を歩いて(前編)


秋も深まりゆくこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

藤井寺駅

直通特急を降りて乗り換えを重ね…たどり着いたのは近鉄南大阪線の藤井寺駅です。

藤井寺一番街

駅前には賑やかな商店街がありました。神戸に住む私には、この辺りはあまり馴染みがないために景色が何だか新鮮で、ついきょろきょろしてしまいます。

世界文化遺産

商店街にはこんな垂れ幕が。
藤井寺のある古市地区から堺市の百舌鳥地区へと古墳が点在する「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されたのは今年7月のこと。地元は大きく盛り上がっていて、この日も古墳散策と思われる方を多く見かけました。

葛井寺

商店街を抜けて歩いていくと立派な山門がありました。こちらは葛井寺という真言宗の寺院です。市名と漢字は異なりますが、読みは同じ「ふじいでら」で、この寺院が市名の由来となっています。

葛井寺は奈良時代の神亀2(725)年に行基が創建したと伝わっています。しかし、行基創建と言われると本当だろうかと思ってしまうところ…。別の説では、飛鳥時代に渡来系の王辰爾の甥の胆津なる人物を祖とする葛井氏が氏寺として創建したと言われています。真実は今となってはわかりませんが、これから古墳を巡ることを考えると、渡来系の人物の創建と言われたほうが盛り上がってきそうな気がするのは私だけでしょうか。

葛井寺の境内

境内は広々としていて、立派な堂宇が建ち並んでいます。中世には一度荒廃してしまった葛井寺ですが、再興された後に室町時代には興福寺の末寺となって栄えたそうです。ただし、当時の建物は火災や地震によって失われ、現在の建物の多くは近世に建てられたものです。

古市古墳群を歩くと言っておきながら、古墳が出てきていないような気がしますが…。次回は古墳を巡って歩いてみたいと思います。

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奈良の東大寺を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて奈良の東大寺を訪ねて歩いてみたいと思います。

東大寺三月堂

大仏殿を出て三笠山麓へと歩いてみることにしました。たどり着いたのが東大寺三月堂。以前もお話ししましたように、東大寺は二度の兵火に遭い、大仏殿をはじめ多くの堂宇が焼失してしまいました。こちらの東大寺三月堂は唯一、創建時からの建物と言われています。この周辺は東大寺の境内の中でも「上院」とも呼ばれ、東大寺の前身とされる金鐘寺の境内だった場所と言われています。大仏殿付近の観光客の賑わいと比べると少し落ち着いた雰囲気です。

東大寺二月堂

三月堂の隣には二月堂が建ち並んでいます。二月堂といえば、松明を持った僧侶が火の粉をまき散らしながら舞台を巡る「お水取り」で知られる修二会がよく知られているのではないでしょうか。私はテレビで観るたびに火事になるのではないかと不安になったりもしていたのですが、実際、二度の兵火を免れた創建時の建物は江戸時代の寛文7(1667)年の修二会の最中に発生した火災で焼失。現在の建物は寛文9(1669)年に再建されたものです。

二月堂からの眺め

二月堂からは東大寺だけでなく奈良盆地を見渡すことができました。 これまで二月堂で景色が良かった印象は正直なかったのですが、改めて訪れてみると新しい発見があるものです。

塔頭寺院を眺めて

二月堂から大仏殿の方へと下り坂を歩いていくことにしました。土壁の向こうに建ち並ぶのは塔頭寺院の堂宇です。寺院が建ち並ぶ中には田んぼがあったりして、観光客で賑わう東大寺のイメージとは少し違った雰囲気があります。

大仏殿

木立の向こうに大仏殿が見えてきました。東大寺の境内の散策もこれで一周したことになります。

紅葉の盛り、奈良なら遠足で何度も行ったことがあると言う方も、改めて訪れてみれば新しい発見があるかもしれませんよ。

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奈良の東大寺を訪ねて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、奈良の東大寺を訪ねて歩いてみます。

大仏殿

拝観料を払って中門の中へ入ると、大仏殿がそびえます。南大門も大きいのですが、大仏殿はさらなる大きさで、世界最大級の木造建築と知られています。奈良時代の天平寶字2(758)年の創建当時は今よりも大きかったそうですが、二度の兵火で焼失し、現在の建物は江戸時代の宝永6(1709)年に建てられたものです。現在は国宝に指定されています。

奈良の大仏さま

大仏殿の中に入ると、奈良の大仏さまの前に出ました。関西にお住まいの方なら、小中学校の校外学習などで訪れていると思いますが、不思議とそれ以外ではあまり訪れる機会がないのではないでしょうか。

奈良の大仏さまこと「東大寺盧舎那仏像」は奈良時代の天平17(745)年に制作を始め、天平勝宝4(752)年に完成した仏像です。大仏の建立が始まった当時は災害や疫病の流行が多発し、九州では藤原広嗣の乱が発生するなど非常に不安定な時代で、当時の聖武天皇は大仏を建立し仏教の力で社会の安定を図ろうとしました。しかし、巨額の出費を伴う大仏建立で国家財政はひっ迫し、それを補うための増税で庶民の貧困が深刻化。聖武天皇の願いとは裏腹に、律令政治そのものの根幹を揺るがすこととなりました。また、建立当初の大仏は技術が未熟であったためか、ひび割れが多数発生し、後の地震で頭部が落下。そして、二度の兵火による焼損で建立当初のものは台座の一部のみとなってしまいました。

大仏殿の比較模型

堂内には新旧の大仏殿の比較模型がありました。建立当初の大仏殿は現在のものよりも大きかったと言われていますが、模型で比べてみれば一目瞭然で、今よりも随分大きな建物がこの地にあったとは驚きですね。

聖武天皇が大仏建立にこめた思いは叶ったとは言えないと思いますが、先立つ飛鳥や藤原の都と違い、遷都後も奈良が都市であり続けられたのはこの大仏の存在があったからだとも言えるのではないでしょうか。だからこそ、何度壊れ、何度焼けても修復されてきたのでしょう。

中門より大仏殿を眺める

中門より大仏殿を眺めてみました。小中学校の校外学習以来、奈良の大仏さまを訪ねたことがないという方、改めて訪れてみれば新しい発見があるかもしれませんよ。

次回は、三笠山麓を歩いてみたいと思います。

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奈良の東大寺を訪ねて(前編)


木々も色づき始めたころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

近鉄奈良駅

神戸から直通の列車で到着したのは近鉄奈良駅
今回は奈良の町を歩いてみたいと思います。

東大寺と三笠山

日本人や外国人の観光客で賑わう通りを歩いていくと、展望台のある休憩施設がありました。展望台からは東大寺南大門大仏殿三笠山を眺めることができました。今回は東大寺を目指して歩いていきたいと思います。

説明するまでもありませんが、奈良は古代に日本の都が置かれた古都です。京都の長岡京への遷都後、都としての街は失われてしまいましたが、遷都後も残された寺院の門前町として、中世まで日本第二の都市として栄え、北の京都に対して「南都」と呼ばれてきました。現在でも国内外の多くの観光客が訪れる観光都市です。

東大寺南大門

名物の鹿を避けながら歩いていくと、東大寺南大門にたどり着きました。東大寺といえば大仏殿の大きさがどうしても印象に残るのですが、南大門も相当な大きさです。門の左右には国宝の金剛力士像が納められています。

鹿の喧嘩

南大門の傍に人だかりがあるので何かと思ったら、鹿が頭を突き合わせて喧嘩していました。奈良の鹿といえば鹿せんべいをねだるばかりと思っていましたが、こうした姿を見るとやはり野生動物なのだなと思います。

南大門をくぐって大仏殿へと向かうことにしました。

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奈良町そぞろ歩き(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、奈良町を歩いてみたいと思います。

奈良町の景色

天神社の丘を降りるとこんな景色が広がります。

名勝大乗院庭園文化館

街中にあったのが名勝大乗院庭園文化館です。
文化館の前には美しい旧大乗院庭園が広がっていました。
庭園の名称になっている大乗院は興福寺の門跡寺院で、平安時代の寛治元(1087)年の創建という古い歴史を持っていました。同時期に庭園も整備されたとのことですが、明治時代に廃寺となり、現在は庭園だけが公益財団法人の管理で残されています。暖冬のせいか、訪れた時にはまだ紅葉が残っていて、美しい景色でした。

元興寺

名勝大乗院庭園文化館より街中を歩いて着いたのが元興寺。奈良町の街並みに溶け込むような小さな寺院ですが、元を辿れば飛鳥にあった飛鳥寺で、蘇我馬子の創建と伝わる非常に長い歴史を持っています。平城遷都後の養老2(718)年に現在の場所に移り、元興寺と称するようになりました。

元興寺の境内

元興寺の境内は意外と広々としていて、冬の日差しが差し込んでいました。

平城京での元興寺は朝廷が管理する官大寺とされ、北の興福寺、南の元興寺と並び称される大寺院でした。しかし、平安時代に桓武天皇が律令制度を実質的に廃止した(諸説あります)ことで官大寺ではなくなり、以後は興福寺や東大寺の管理を経て衰退をしていきます。

元興寺の庭園

境内を散策していて、こじんまりとした庭園を見つけました。穏やかな眺めで、縁側に腰を掛けてお茶でも飲みたくなります。

衰退を続けた元興寺は室町時代には先ほど庭園を眺めた興福寺大乗院の支配下になります。江戸時代には西大寺の支配下になりますが、明治時代にはついに無住の寺となってしまいました。このまま荒れ果てていくのかと思いきや、戦中戦後には真言宗の寺院となり、復興していきます。現在では奈良町の史跡の一つとして多くの観光客が訪れています。明治維新後、奈良で多くの寺院が廃寺になった中でこの元興寺が廃寺にならなかったのはその由緒のためでしょうか。

元興寺の屋根瓦

元興寺の中で特に興味深かったのがこの屋根瓦。黄色っぽい瓦と黒っぽい瓦がモザイクのように組み合わせられています。黄色っぽい屋根瓦は飛鳥から移転の際に持ってきた瓦と言われていて、技術が未熟だったために粘土の純度が低く砂や小石などの不純物が多く含まれているために黄色っぽく見えます。黒っぽい瓦は奈良、平安、鎌倉、室町と時代によって瓦の製法が進歩して作られるようになったものです。日本の瓦の技術の移り変わりが一目でわかるこの屋根瓦は元興寺でも必見ですね。

奈良町を歩いて

元興寺からは奈良町の風情ある街並みを眺めながら近鉄奈良駅に向かうことに。「せっつ・はりま」とタイトルで謳っていながら奈良、しかも、興福寺も東大寺も訪れないという偏屈な史跡巡りでしたが、ようやく帰途に就くことにしました。

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奈良町そぞろ歩き(前編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回までは奈良の春日大社を歩いてきましたが、今回からは奈良の市街地の南側に広がるいわゆる「奈良町」を歩いてみたいと思います。

飛火野

散策は春日大社の外れにある飛火野から。冬の風物詩の鹿寄せが知られる広場です。草地の真ん中には巨大なクスノキがたっていて、何だか、某CMを思い出してしまう景色です。「飛火野」という奇妙な名前の由来は諸説あるようですが、奈良時代に(とぶひ・煙や火を用いた情報伝達手段)が設けられたことを由来としているというのが有力だそうです。

浮見堂

奈良公園を歩き、鷺池の畔に出ました。池の中には浮見堂が建っています。奈良らしい景色で、気分が盛り上がってきますね。

山ノ上町

鷺池の畔から坂道を登っていくと奈良盆地を見下ろす小高い丘に出ました。この辺りは現在の住所表記では奈良市高畑町となっていますが、案内看板には「山ノ上町」とありました。その名の通り山の上の町です。奈良時代、都の外側に位置するこの地域は「平城の飛鳥」と呼ばれていたそうで、意外と歴史があるようです。

天神社

丘の頂上には小さな神社がありました。こちらは天神社という神社で、菅原道真を祭る天満宮です。平安時代の人間である菅原道真をわざわざ奈良で祭るのは一体…?と思ったのですが、神社の縁起によると、もともと学問と医薬の神とされる少彦名命を祭っていたのですが、平安時代になり菅原道真が学問の神様として各地で祭られるようになる中、菅原氏が奈良に縁があるとかでこの神社に合祀したとのこと。

天神社からの景色

天神社からはこれから歩いていく奈良町を見下ろすことができました。
次回は平城の奈良を降りて、奈良町を歩いてみたいと思います。

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第六十次式年造替・春日大社を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続いて奈良の春日大社を歩いてみたいと思います。

回廊

境内の回廊には灯篭が並んでいました。春日大社の象徴的な景色で、海外でもよく取り上げられているためか多くの外国人旅行者がカメラを向けていました。

御蓋山浮雲峰遙拝所

境内の奥に行くと御蓋山浮雲峰(みかさやまうきぐものみね)遙拝所がありました。こちらは回廊の裏で禁足地なのですが、第六十次式年造替に伴い期間限定で特別公開されています。

御蓋山浮雲峰は春日大社の背後にそびえる御蓋山の山頂で、春日神のうちの一柱である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が白鹿に乗って降り立った場所とされています。山は古くから禁足地とされ、入山は厳しく制限されています。この遙拝所は山の尾根筋にあり、鳥居から山頂を望むことができるとのこと。山頂には武甕槌命を祭る本宮神社があるそうで、ここが春日大社のルーツともいえましょうか。なかなか興味深いところですが、残念ながら、毎年1月の「嘉例ノ本宮登拝」を除いて一般の人間が参拝することはできません。

奈良の鹿

春日大社の参道を歩いていると、鹿を見かけました。街中をこんな大型の動物が歩いている光景が見られるのは奈良の他ではインドの牛くらいでしょうか。この鹿たちは春日大社の背後の山々に棲む野生の鹿で、春日神の使いとして古くから大切にされてきました。この鹿のいる景色も奈良独特ですね。

飛火野より

春日大社を後にし、飛火野から山々を眺めてみました。春日大社の背後には御蓋山をはじめ春日山原始林が広がっています。これらの森は古くから神域とされ、木々の伐採や殺生が禁止されてきました。人口36万人の都市に隣接して人の手のほとんど入らない原始の森林が広がっているのは奈良独特ですね。そのためもあってか、春日大社だけでなく春日山原始林も「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されています。

明日1月9日は御蓋山浮雲峰に武甕槌命が降り立った日とのこと。
観光地であるだけではない、神秘的な雰囲気の奈良を訪れてみてはいかがでしょうか。

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第六十次式年造替・春日大社を訪ねて(前編)


新年明けましておめでとうございます。
今年も「せっつ・はりま歴史さんぽ」をよろしくお願いいたします。

行基像

新年第一回に訪ねたのは大和国は奈良。近鉄奈良駅前の噴水には行基像が建っています。山陽電車沿線でも数々の史跡の由緒に登場してきた行基のお膝元をついに訪問です。

奈良公園へ

近鉄奈良駅から奈良公園方面へ歩いていくことに。大通りはインバウンドの旅行者でにぎわっていました。奈良といえばもはや説明は不要でしょうが、千三百年の古都。しかし、かつての平城京は都市としては一度消滅しています。現在の奈良の市街地は東大寺や興福寺、春日大社などの諸社寺の門前町として発展したいわば観光都市で、平城京とは場所も街の性格も大きく異なったものです。よく奈良と京都が比較されますが、どちらかといえば鎌倉や慶州に似た都市なのではないかと思いますが…、この辺りは個人の意見です。

春日大社

冬の日差しに鴟尾が輝く大仏殿を横目に到着したのは三笠山の麓にある春日大社。藤原氏の氏神を祭る由緒ある神社です。この春日大社では現在第六十次式年造替が執り行われていて、長い歴史の中の節目を迎えています。このあたりまで来るとインバウンドの旅行者も少なめになり、落ち着いた雰囲気になってきました。

春日大社の中門

境内を抜けると中門に到着しました。この向こうに本殿があります。ただし、第六十次式年造替によりご神体は昨年3月に移殿へ移っていて、本殿に戻るのは今年の11月の予定です。

春日大社は春日神を祭る春日神社の総本社で、平城遷都後の神護景雲2(768)年に創建された由緒ある神社です。藤原氏の氏神であることから、藤原氏の隆盛とともに発展し、平安遷都後も南都の大社として影響力をもってきました。平成20(2008)年から執り行われている式年造替は20年に一度、神殿を造り替えるものです。似たような儀式の伊勢神宮の式年遷宮は一昨年、播磨国総社の20年に一度の三ツ山大祭はその前の平成25(2013)年でしたし、ここ数年は神社の儀式が集中していますね。今回の春日大社の式年造替はちょうど60回目ということもあってか、今年の11月まで特別な御朱印まで用意されています。

移殿

境内にはご神体が移っている移殿がありました。工事で足場などが組まれていつもの落ち着いた雰囲気とは異なっていますが、式年造替は20年に一度のこと。初詣がまだという方、少し足を延ばして春日大社へはいかがでしょうか。

次回はもう少し春日大社を歩いてみたいと思います。

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