せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸市北区の淡河町を歩いてみたいと思います。

湯山街道

淡河城跡の山を下りて、淡河の町を歩いてみることにしました。県道に並行して集落の中を通るのはかつての湯山街道です。

歳田神社

街道を外れて北へ歩いていくことにしました。田んぼの中に立派な鳥居が佇んでいるのは歳田神社です。

歳田神社の境内

水田の中の参道の先には広々とした神社の境内が広がっていました。

現在はのどかな田園地帯の広がる淡河ですが、太古には「泡河湖(あわごこ)」と呼ばれる湖が広がっていたそうです。湖があり資源に恵まれた環境だったためでしょうか、淡河にははるか縄文時代にさかのぼる遺跡が残されています。その後、この泡河湖は中世にかけて徐々に干拓され、江戸時代の中頃には姿を消してしまったそうです。この歳田神社が建立された時期は分かっていませんが、奈良時代に泡河湖の干拓事業に際して水神を祭ったのが始まりと伝わっています。

宿場町の風情

歳田神社から淡河の町へ戻りました。街中には茅葺の民家が残っていました。湖のほとりの集落から交通の要衝を抑える戦略上の拠点となった淡河は近世には宿場町として発展することになります。

次回は宿場町の風情を感じながらもう少し淡河を歩いてみたいと思います。

湯山街道の宿場町・淡河を歩いて(前編)

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夏の盛りですが、暦の上では立秋を過ぎた頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

道の駅・淡河

神戸三宮から新神戸トンネルを潜り抜けて北へ向かうバスで着いたのは神戸市北区の淡河町です。田園地帯が広がる淡河町ですが、バス停留所の周辺の本町地区には民家や店舗が集まり、少し賑やかな雰囲気です。淡河本町バス停の近くには道の駅・淡河があり、地域の野菜などを売るお店は朝から賑わっていました。

淡河城跡

道の駅・淡河の背後の山には気になる建物がありました。
「淡河城跡」と書かれた看板の立つ山の斜面にはつづら折りの道が設けられていて、その上には砦のような建物があります。

神戸の中心市街からは六甲山地と帝釈山系を挟んで遠いイメージのある神戸市北区淡河町ですが、古くから三木と有馬温泉を結ぶ湯山街道の宿場町として栄えていました。この地域を治め、淡河城を築いたのは淡河氏で、鎌倉時代、北条氏の一族の北条朝盛がこの地域の名前をとって「淡河」と名乗り始めたものです。淡河氏は東播地域へ勢力を拡大し、淡河城は交通の要衝を治めるだけでなく淡河氏の拠点となっていきます。

淡河城跡へ上る

小高い山の上の淡河城跡は現在は神社と公園になっていました。

淡河城跡の碑

公園の隅には淡河城跡の碑が佇んでいました。木漏れ日の差し込む石碑に蝉時雨が降り注いでいます。

淡河氏の拠点となった淡河城ですが、淡河氏は戦国時代に三木の別所氏の配下となります。天正6(1578)年から始まった別所氏と羽柴秀吉との戦いである三木合戦では別所氏側の城となりますが、秀吉の手により淡河城は落城しました。その後、秀吉の中国攻めで功のあった武将・有馬則頼が城主となりますが、江戸時代の元和元(1615)年に出された一国一城令で淡河城は廃城となりました。

淡河城跡からの眺め

山の上の淡河城跡からは先ほど訪ねた道の駅と湯山街道沿いに広がる淡河の町を見下ろすことが出来ました。

山間に宿場町として栄えた淡河、もう少し歩いてみたいと思います。

古代駅家の地・太市を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路市の太市を歩いてみたいと思います。

太市の街並み

破磐神社から太市の集落の中を歩くことにしました。歴史ある地域だけあって、街並みにも趣があります。

専光寺

集落を歩いていると姫新線の線路沿いに出ました。線路沿いに佇んでいたのは専光寺です。大きくはありませんが、姫新線の車窓からもよく見えて印象的な寺院ですね。ここ太市は古墳も多く、この専光寺の奥の山々にある西脇古墳群をはじめ、古墳群が点在しています。

邑智駅家跡

上郡への県道を渡り、南側の集落を歩いていると邑智駅家跡と刻まれた石碑がありました。

古代の山陽道は奈良時代に整備され、姫路から西では現在の姫新線に近いルートを経てから相生市の北側を通って上郡へと向かっていました。律令国家では駅制と呼ばれる通信のための交通制度が整備されていて、街道には駅家(うまや)と呼ばれる中継施設が設けられていました。古代山陽道に設けられていた駅家の一つがここ太市にあったとされる邑智駅家(おおちうまや)です。

邑智駅家?

律令国家の衰退とともに駅制も機能しないようになり、各地に設けられていた駅家は消えていきました。ここ太市の駅家も現在では跡形もありません。のちに近世にかけて整備された西国街道は太市の南側を経由し、太市に宿場が置かれることもありませんでした。太市で行われた発掘調査では、邑智駅家のものと考えられる瓦や建物の跡などが発見されているようです。

太市を眺めて

太市を眺めてみると、冬空の下にのどかな田園風景が広がっていました。はるか古代、この辺りにはたくさんの馬が置かれ、休憩施設などが整備された「駅」があったのでしょうか。

太市は間もなく名産のタケノコの季節を迎えます。「姿は京都山城・味は姫路太市」と評される太市のタケノコを楽しみながら、田園地帯に眠る古代の遺跡や伝説に彩られた町を楽しんでみてはいかがでしょうか。

古代駅家の地・太市を訪ねて(前編)

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寒さの中に春を感じることが増えたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

太市駅

姫路駅からJR姫新線のディーゼルカーに乗り換えて着いたのは太市駅です。

太市駅の駅舎

太市駅自体は無人駅ですが、地元企業の本社ビルを兼ねた駅舎があり、一階ではカフェやこの地の特産のタケノコを使った商品などを販売する店が設けられていました。

姫路や龍野といった歴史ある町に囲まれている中で太市は決して目立つわけではありませんが、その歴史は非常に古く、奈良時代初めに記された『播磨国風土記』には既にその名前があると言われています。風土記によれば、応神天皇がこの地を訪れ、山に囲まれた狭いところと聞いていたのにまことは「大内」であると言ったことから、「大内」と呼ばれるようになったとされています。その他に邑智(おおち)、大市、於布智、於保知などとと書かれることもあったようですが、現在の「太市」の表記が使われるようになった時期は分かっていないようです。

破磐神社の鳥居

駅から北側へ歩くと、田んぼの中に鳥居が佇んでいました。破磐神社(はばんじんじゃ)の鳥居です。

破磐神社

山の麓に佇んでいたのは破磐神社です。

太市が古い歴史があるのと同じように、ここ破磐神社も長い歴史を持っています。伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途、麻生山(山陽電車白浜の宮駅とJR御着駅の間にある山)から三本の矢を射ました。一本目は的形、二本目は姫路市の辻井、そして、三本目はここ太市に落ちたそうです(的形には神功皇后にまつわる別の矢落伝説があり、三本の矢が落ちた場所にも諸説があります…)。太市に落ちた矢は大岩に当たって岩を三つに割ったそうで、これを吉兆として矢を祀る祠を建てたのが破磐神社の始まりとされています。その岩は神社の南西の山の中に今もあり「破磐の大磐」として今もご神体とされています。かつては神社も大磐と同じ山の中にあったそうですが、祭礼の際の利便を図るために集落に近い現在の場所へ移されたとのこと。

破磐神社の境内

山の麓の神社の境内は広々としていました。特に祭礼でもないのに多くの参拝客がいるのに驚きましたが、どうやら、神秘的な創建伝説のおかげなのか、現在ではパワースポットとして注目されているそうです。

のどかな景色の中に長い歴史を持つスポットが佇む太市、次回ももう少し歩いてみたいと思います。

相生を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回と前回に続いて、相生市の相生地区を歩いてみたいと思います。

相生の町並み

相生天満神社を後にして、相生の街中を歩きます。
どこか瀬戸内の港町のような趣のある街並みが続いていました。

光明寺

街の中にひときわ目立つ大きな屋根が見えました。こちらは光明寺です。

光明寺の境内

山門をくぐった先の境内には浄土真宗の寺院らしく、巨大な本堂がそびえていました。

光明寺は明応5(1596)年に播磨海老名氏の二代目の海老名季重が開いた寺院で、海老名氏の菩提寺でした。創建当初は本堂前のイチョウの木の間に設けられた小さなお堂だったそうですが、明治時代、相生港に台風で流れ着いた木材を使って今の堂宇が建てられたそうです。ちなみに、相生の庄屋となった海老名氏はここ光明寺の北側、今の相生公民館の辺りに屋敷を構えていましたが、この屋敷は明治時代に焼失し、現存していません。

南町荒神社

相生の街を通り抜けて、南側の山に天満神社と向かい合うように佇む南町荒神社を訪ねてみました。

荒神社からの景色

荒神社からは瓦屋根の家々が建ち並ぶ相生地区を見下ろすことができました。近世を通して相生は赤穂藩領で、城下町ではありませんが、どこか漁村とは違った趣があるように感じますね。

相生湾沿いの巨大な造船所は重工業都市・相生の象徴のような景色ですが、瓦屋根の家々が山の合間に建ち並ぶ光景は「おお」と呼ばれた頃の相生を今に伝えているようです。これから相生では牡蠣のシーズンを迎えます。深く切れ込んだ相生湾の海の恵みを楽しみながら、相生の町並みを訪ねてみてはいかがでしょうか。

相生を歩いて(中編)

投稿日:


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、相生市の相生地区を歩いてみたいと思います。

蛭子神社

相生港バス停の傍には神社が佇んでいました。こちらは蛭子神社です。前回、少し見てきたように、相生湾の奥の那波と違い、ここ相生は漁業を中心とした集落でした。この蛭子神を祀るこの蛭子神社も漁村らしい雰囲気を今に伝えています。

大谷川

相生地区の北側を大谷川が細く流れていました。川沿いには家並みが続いています。街中には相生湾で獲れた新鮮な魚介を扱う鮮魚店が所々にあり、今でも漁村の活気を感じることができます。

相生天満神社

大谷川を渡った先、石段の上に立派な神社が佇んでいました。相生天満神社です。この神社は建立されたのは平安時代も終わろうとしていた建久2(1191)年のこと。当時、この地を納めていた海老名氏が社を建てたのが始まりです。

もともと「おお」と呼ばれていたこの地を豪族・海老名氏が治めるようになったのは平安時代の後期の長治元(1104)年とされています。海老名氏は元々相模国、現在の神奈川県海老名市付近を治めていた豪族で、家督争いの末に一派が相生湾の奥の那波に城を構えてこの地を治めるようになりました。「相生」の地名は相模国の「相」に生きる「生」という字を組み合わせて生まれました。ただし、昭和に相生市となるまで、「相生」の読み方は「おお」のままだったそうです。

相生天満神社の境内

境内は急な斜面に張り付くようですが、趣があり立派な社殿が佇んでいました。
この相生天満神社の創建には様々な伝説がありますが、一説では播磨海老名氏の祖となった海老名家李が陣中で拾得した菅原道真像をこの地に祀ったのが始まりとされています。

相生地区を見下ろす

相生天満神社からは山と相生湾に囲まれた谷に住宅が建ち並ぶ相生地区を見下ろすことができました。古くは「おお」と呼ばれ、この相生市の原点ともいえる相生地区。次回ももう少し歩いてみたいと思います。

相生を歩いて(前編)

投稿日:


木々が色づき、暦の上では冬を迎えたころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

相生駅

山陽姫路駅からJRに乗り換えて着いたのは相生駅。
新幹線の駅もあり、相生市の玄関となる駅です。

相生港バス停

相生駅からバスに乗って着いたのは相生港バス停です。
相生市の中心市街は深く切れ込んだ相生湾の最奥部から相生駅にかけて広がっていて、相生地区と呼ばれる相生湾内の入江の奥に広がるこの辺りは少しのどかな雰囲気です。

相生湾

バス停のすぐそばには相生湾が広がっていました。青々とした水面の向こう、湾の対岸には巨大な造船所がそびえています。

古くは蝦江と呼ばれた相生湾に面した相生市は播磨灘が深く切り込み、深く風の影響を受けにくい地形を生かして、古くから港町として栄えていました。湾の最奥部の那波は港町、ここ相生は漁業の町として、栄えていたそうです。そんな相生湾に難工事の末にドックが開設されたのは明治45(1912)年のことでした。

相生(おお)の石灯籠

バス停の近くには石灯籠が佇んでいました。相生(おお)の石灯籠と呼ばれるこちらは江戸時代の天保14(1843)年に相生港の波止(防波堤)に建立されたもので、夜間には灯りが灯されて灯台の役割を果たしていたそうです。古くからの港は平成11(1999)年の相生湾の改修で雰囲気が変わってしまいましたが、港を見守ってきた石灯籠は今も波止のあった場所に佇んでいます。

造船業の発展で重工業の街のイメージの強い相生ですが、ここ相生にはそれ以前の相生湾の風情が残されているようです。
次回、もう少し相生を歩いてみたいと思います。

相生湾の奥の街・那波を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、相生の那波を歩いてみたいと思います。

大島山

大島山
に登ることにします。急な坂道には石仏が並んでいました。

大島山本覚院善光寺

山の上には寺院がありました。こちらは大島山本覚院善光寺です。

大島山はその名の通り元々は相生湾に浮かぶ島でした。この島に城が築かれたのは平安時代の長治元(1104)年、海老名家季の手によるものとされています。この海老名氏が相模国由来であったことから、家季の孫の盛重の代にこの地の呼び名の「おお」に相模生まれの「相」「生」の字を当てたのが「相生」の地名の由来とされていて、この場所が「相生」の始まりの場所と言えるのかもしれません。

住吉神社

山頂は開けていて、住吉神社もあります。

海に囲まれた島にあった大島城は「浜御殿」とも呼ばれ、美しい城だったと言われています。しかし、南北朝時代の建武3(1336)年、当時の城主の景知が赤松氏に従って上郡の白旗城を守っている際に新田義貞の軍勢によって焼き払われてしまいました。海老名氏自体はその後も戦国時代にかけて播磨地域の豪族としてこの地域を治めていましたが、近世に入ると武士の身分を返上し、今の相生港地区に屋敷を構え、庄屋として明治時代まで続いたそうです。

大島城の碑

大島城は比較的早い時代に城が失われたためあまり城跡の雰囲気は残っていませんが、麓に降りると立派な石碑が佇んでいました。

大島城を眺める

相生市街を流れて相生湾に注ぐ芋谷川に沿って相生駅の方へ歩いてみました。
振り返るとこんもりとした大島山の姿が見えました。相生の地名の始まりに関わる城は今もこうして相生を見守っています。

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相生湾の奥の街・那波を訪ねて(中編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて相生の那波を歩いてみたいと思います。

相生湾に沿って

白龍城
から相生湾の海岸にそって歩きます。
対岸は目と鼻の先でまるで川のような景色で、相生湾の深さを感じさせます。現在は湾を回る道路が整備されていますが、以前は相生湾を挟んだ移動に浮橋や渡船が利用されていました。深い湾ならではの光景があったのですね。

大島

相生湾の奥が近づいてくると、こんもりとした島のような小山がありました。こちらは大島山です。

市名になっている「相生」はもともと湾の東側の地区の地名で、浦名の「おお」に「相生」という字を当てたものとされています。一方の湾の西側から今の相生駅周辺にかけての地区は「那波」と呼ばれ、もとは相生とは別の自治体でしたが、戦前に相生町に編入されてそのまま相生市の一地区となりました。ただ、交通の利便性などのせいでしょうか、市街地や行政機関はどちらかというと那波のほうに集まっています。

相生湾の奥

大島山を眺めながら歩くと、相生湾の奥に着きました。

大島山の麓

相生湾を回り込むと、先ほど対岸から眺めた大島山の麓に着きました。

大島山へ

大島山に登ってみると、早速蚊の大群に襲われました。くじけそうになってしまいますが、この大島山には相生の地名の由来につながるスポットがあります。

次回、もう少し相生の那波を歩いてみたいと思います。

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相生湾の奥の街・那波を訪ねて(前編)

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彼岸を迎え、暑さも和らいできたころ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西相生駅

山陽姫路駅から乗り換えて着いたのは西相生駅です。

相生湾

西相生駅から歩くと、相生湾が広がります。
播磨灘から深く入り込んだ湾は牡蠣などの養殖が盛んなだけでなく、周辺には工場も建ち並んでいて、漁業と重工業の街の雰囲気です。

白龍城

相生湾のほとり、那波という地区に入ると中華風の建物がありました。こちらは「道の駅海の駅あいおい白龍城(ぺーろんじょう)」です。

白龍(ペーロン)は龍船(白龍)を競漕する祭りで、もとは中国のものでした。日本に伝わったのは江戸時代の1655年と言われ、長崎を訪れた中国船が強風で出航できなくなった際、海神を慰めるために龍船の競漕を催したのが始まりとされ、その後、長崎の祭りとなりました。ここ相生に伝わったのは大正時代とされ、長崎出身の造船所従業員たちが故郷を懐かしんで催すようになったそうです。この施設はその白龍にちなんだデザインの施設です。

相生湾を眺める

賑わう白龍城の裏手からは相生湾を眺めることができました。

相生湾の海の景色に彩られた街・那波をもう少し歩いてみたいと思います。

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