浪速の今宮を訪ねて(前編)


春も近いこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今宮戎駅

南海電車で着いたのは今宮戎駅

今宮戎駅を眺める

今宮戎駅は南海難波と新今宮の間にあり、多くの電車が行き交いますが、この駅に停まるのは高野線への電車だけです。そのためか、街中にありながら駅はひっそりとしていました。

今宮戎神社

駅からほどなくの場所にあったのが、駅名の通り、今宮戎神社です。

大阪ミナミの街中にある今宮戎神社の歴史は非常に長く、推古天皇8(600)年の創建と伝わっています。伝説では、聖徳太子が四天王寺を建立した際に、西方の守護として建立したとも伝わっていますが、本当のところははっきりしていないようです。

今宮戎神社の境内

境内は広々としています。ただし、毎年1月の十日えびすには100万人もの参拝者が訪れるとのことで、この広い境内も人で埋め尽くされるのでしょう。

大阪の繁華街の中にはるか古代からの史跡が眠る今宮。
次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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大阪天満宮を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪天満宮を訪ねて歩いてみたいと思います。

大将軍社

大阪天満宮の境内にあったのが天満宮がこの地に創建されるきっかけとなった大将軍社です。

平安時代の延喜元(901)年に大宰府に向かう途中の菅原道真はこの大将軍社を参拝しました。大宰府で道真が没した五十年ほど後、この大将軍社の前に一夜にして七本の松の木が生え、夜な夜な光ったそうです。それを聞いた当時の村上天皇の命で建てた道真を祀る社が現在の大阪天満宮です。

天満天神繁盛亭

天満宮の裏手には「天満天神繁昌亭」なる落語の寄席がありました。寄席の建物のせいか、どこか門前町らしい雰囲気で、ここが大阪の都心の真ん中であることを忘れてしまいそうです。

大阪天満宮の路地

大阪天満宮の裏手はこんな雰囲気。
かつてはこの辺りも境内の中で、街中に天満宮の摂社が点在しています。

星合の池

天満宮の裏手、大阪天満宮駅の方へ向かうと、ビルの合間に石造りの鳥居と池がありました。こちらは星合の池です。池の中には祖霊社と茶店がありました。かつてはこの辺りも天満宮の境内で、周辺に他の池もあり、この星合の池も今の三倍程度の大きさがあったそうなのです。しかし、近代に入り、都市化により埋め立てられ、現在の姿になりました。

池と祖霊社
ビルの向こうは多くの人や車が行き交い地下には谷町線とJR東西線が走る曽根崎通ですが、池の周りはまるで別世界のような雰囲気です。

大都会の中にまるでオアシスのように佇む大阪天満宮、大阪にお出かけの際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

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大阪天満宮を訪ねて(前編)


新緑の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

南森町

今回訪ねたのは大阪の南森町Osaka Metroの駅名では「南森町」ですが、JR東西線の駅名では「大阪天満宮」です。

大阪天満宮

JRの駅名の通り、駅のすぐそばには大阪天満宮がありました。
ビルの合間にそびえる表門は立派ですが、この景色を見ると、私はみたらし団子系和菓子のCMを思い出してしまいます。

大阪天満宮の境内

大阪天満宮は大阪の街の中心にありますが、境内は広々としていて緑豊かです。

大阪天満宮の歴史は奈良時代の白雉元(650)年にまで遡るといわれています。現在の谷町四丁目付近に造営された難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)の守護として大将軍社が創建されたのが始まりとされています。南森町の地名の「森」とはこの大将軍社の森を指すとされていて、かつては対になる「北森町」という地名もありました。

登竜門

境内にあったのが登竜門です。
現在の大阪天満宮は天保8(1837)年の大塩平八郎の乱で焼失したものを再建したもので、その当時から東西にこの登竜門が設けられています。毎年受験シーズンには合格守を購入した方を対象に、この登竜門を潜り抜ける「登竜門通り抜け参拝」ができるとのこと。

大阪の都心に佇む大阪天満宮。次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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島の城下町・洲本を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて淡路島の城下町・洲本を歩いてみたいと思います。

下屋敷町

外町の通りを歩き、曲田山の麓に出ました。外町の南の端の通りには風情ある街並みが続いています。この辺りはかつて「下屋敷町」という地名で、その名の通り洲本城代・稲田氏の下屋敷があったそうです。

旧益習館庭園

街外れにあったのが旧益習館庭園です。もともとは稲田氏が下屋敷内に設けた西荘の庭園で、幕末の嘉永7(1854)年に稲田氏の学問所「益習館」が移ってきたために、益習館庭園と呼ばれるようになりました。

堀端通

旧益習館庭園から堀端通に戻ります。通の東側が内町で西側が外町で、いずれも洲本の古くからの市街地で、「松の内」とも呼ばれています。

洲本の内町と外町を分けた町割りは徳島藩の藩庁のあった徳島の街づくりを思わせます。ただし、吉野川河口のデルタ地帯に形成されて複雑な地形の徳島と比べると、洲本の町割りはシンプルですね。内町も外町も碁盤の目の整然とした町割りなのですが、なぜか、どちらの通りも堀端通と直角に交わっておらず、今でも内町と外町の境界がはっきりとわかります。近世には、内町には藩の行政機関や藩士の屋敷が多く集まり、外町には町人の町屋が集まっていたようですが、入り組んでいるところもあり、厳然と分けられていたわけではなかったようです。

弁天銀座

堀端通沿いに飲食店の建ち並ぶ道がありました。「弁天銀座」または「新開地」と呼ばれている町です。

厳島神社

通の突き当りに大きな神社がありました。こちらは「淡路島弁財天」とも呼ばれる厳島神社です。先ほどの弁天銀座はこの神社の参道だったのでしょうか。創建時期はわかっていないようですが、近世に洲本の城下町が形成されていく中で造られたのでしょうか。

城下町の街づくりにまで徳島の影響を感じさせる洲本ですが、明治に入り、稲田氏と蜂須賀氏との対立から起こった庚午事変により、洲本を含む淡路島は徳島から切り離され、兵庫県に編入されることになりました。

洲本城を眺める

厳島神社の前からは洲本城の模擬天守を眺めることができました。

徳島と兵庫の間で複雑な歴史を辿ってきた洲本。淡路島の観光地の雰囲気とは少し違った、歴史の積み重ねを感じる街並みをゆっくりと歩いてみれば、新しい発見があるかもしれません。

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島の城下町・洲本を歩く(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、淡路島の洲本を歩いてみたいと思います。

本町

かつて洲本城の内堀だった堀端通を南に向かうと、アーケードのある商店街が見えてきました。こちらは本町の商店街です。

もともと由良にあった城と城下町が「由良引け」によってここ洲本に移ったのは寛永8(1631)年のこと。それ以降、徳島藩蜂須賀家の家老で洲本城代を務めた稲田氏によって江戸時代中ごろにかけて徐々に城下町が整えられていったそうです。現在は堀端通になっている内堀の海側が内町、山側が外町とされ、この本町は外町に形成された商業地でした。

本町の街並み

アーケード街に入ると商店が建ち並び、中には歴史を感じる建物もあって、古くから中心市街として栄えていたことを伺わせます。

淡路信用金庫本町支店

商店街の中で特に目立つのが風格のあるこちらの淡路信用金庫本町支店の建物です。もともとは兵庫農工銀行の洲本支店として建てられた建物で、戦前の昭和10(1935)年の建築です。兵庫農工銀行は戦前戦中に他の県にもあった農工銀行とともに日本勧業銀行(後のみずほ銀行)に統合され、戦後にはここ洲本から撤退してしまいますが、その後には地元の淡路信用金庫がこの建物に入り、今も現役の銀行として使われています。網干の旧網干銀行もそうですが、商店街の中の銀行建築は心惹かれるものがありますね。

外町の街並み

本町商店街から南北の通りを覗いてみると、こちらも風情のある街並みが続いています。

江国寺

通りの突き当りにあったのが江国寺です。

江国寺は洲本城代を務めていた稲田氏の菩提寺です。かつては城や城下町とともに由良にありましたが、「由良引け」で今の洲本に移ることとなりました。江国寺の西側の千草川沿いには他に七つの寺が建ち並んでいて、寺町と呼ばれています。

江国寺の境内

江国寺の本堂は、城代の菩提寺だったせいか、巨大で印象的ですね。

城下町らしい風情ある街並みが今に残る洲本。もう少し歩いてみたいと思います。

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島の城下町・洲本を歩く(前編)


寒さの中に春の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

明石海峡大橋

今回は高速舞子バス停から山陽バスの高速バスに乗り、明石海峡大橋を渡ります。

洲本

高速バスで到着したのは淡路島の洲本
淡路島の中心都市で、多くの建物が建ち並び賑わった雰囲気です。
街はずれの三熊山の頂には洲本城の小さな模擬天守を見ることができます。

淡路島は現在では兵庫県になっていますが、もともとは四国とつながりの深い地域でした。かつての中心地は洲本から海岸沿いに南に下った由良でした。しかし、山が海に迫る由良は土地が狭く、江戸時代の寛永8(1631)年洲本を治めていた徳島藩蜂須賀氏が所謂「由良引け」で城も城下町も洲本に移すことになります。以後、洲本が淡路島の中心として発展することとなりました。

洲本駅跡

街中に淡路交通のバスの車庫がありました。
かつてはここが洲本のバスターミナルで、さらに時代を遡れば、ここ洲本と南あわじ市の福良を結ぶ淡路鉄道の洲本駅でした。淡路鉄道は島内の輸送だけではなく、福良から航路で鳴門・徳島へと連絡していたとのこと。今では神戸・大阪へ高速バスが頻繁に運行する一方で、洲本から徳島へのバスはごくわずかしか運行されていませんが、かつては四国とのつながりが深かったことを伺わせます。

農人橋跡

洲本駅跡から街中を歩いていくと、市役所の真新しい建物の傍らに石碑がありました。こちらは農人橋の跡です。かつてはここに洲本城の堀があり、堀を渡る橋が架かっていたとのことです。

洲本城の堀は

洲本城の堀はほとんどが埋め立てられてしまいましたが、この付近ではわずかでありますが痕跡があります。石碑の向かい側の商店の裏を覗くと、水面を眺めることができました。

「由良引け」で生まれた洲本の城下町。
もう少し歩いてみたいと思います。

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御堂筋を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の御堂筋を歩いてみたいと思います。

御堂筋を見下ろす

北御堂
から御堂筋を見下ろしてみました。
街路樹の葉は眩しいくらいに緑で爽やかです。

現在の大阪のメインストリートは御堂筋ですが、かつては和歌山への紀州街道の一部で、港町・へも続く物流の大動脈であった堺筋がメインストリートでした。一方の御堂筋はというと、明治時代の地形図では名前すら書いていない一街路に過ぎず、隣の心斎橋筋のほうが賑やかであったといわれています。それが現在のような大通りになったきっかけは町はずれの梅田に設けられた大阪駅でした。大阪の新しい玄関口となった大阪駅と古くからの市街地を結ぶ交通路として御堂筋は拡幅されることとなり、道路とセットで地下には大阪初の地下鉄も建設されることになりました。大正15(1926)年の着工から工事は急ピッチで進み、完成は昭和12(1937)年のこと。以来、御堂筋は大阪のメインストリートとなり、多くのオフィスビルや商店が建ち並ぶこととなりました。

船場センタービル

北御堂から南へ歩いていくことにします。御堂筋と交差する道路は中央大通で、上を走るのは阪神高速13号東大阪線です。高速道路の高架下は薄暗いイメージですが、この辺りはちょっと違った印象で、高架下に細長いビルが延々と続いています。このビルは船場センタービルです。大阪の道路では御堂筋が有名ですが、戦後に拡幅された中央大通も実は大規模なものでした。完成は昭和45(1970)年のことで、船場センタービルは道路用地となった地区の商店の移転先として設けられたものでした。

南御堂はいま

「北御堂」があるのであれば、「南御堂」もあるはずですね。中央大通を渡った先にあるのが「南御堂」こと真宗大谷派難波別院です。しかし、現地を訪れてみると、工事用の仮囲いが…。現在、南御堂の境内ではホテルなどが入る山門を兼ねた複合ビルが建設中とのことです。ビルが完成するまでしばらく仮囲いの景色となりますが、都心にある大寺院らしい景色である意味興味深いですね。

南御堂の境内

仮囲いの横に設けられた通路から南御堂の境内に入ってみました。

南御堂も歴史は古く、安土桃山時代の文禄4(1595)年、この地の北側の道修町に大谷本願寺が創建されたのが始まりと言われています。慶長3(1598)年にはこの地に移転しますが、程なく慶長7(1602)年には大谷本願寺の機能が京都に移転。跡地にはこの難波御堂が設けられました。江戸時代には壮大な堂宇が設けられたのですが、太平洋戦争中の空襲で焼失。現在の建物は戦後再建されたコンクリート造りのものです。

南御堂と御堂筋

御堂筋から南御堂を眺めてみました。御堂筋も南御堂も大きく姿を変えていきましたが、今も大阪の街を見守っています。大都会の中にこっそりと潜んでいる歴史を探ってみるのもたまにはいいですね。

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御堂筋を歩く(前編)


梅雨の気配も感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

本町駅

大阪メトロ御堂筋線
を降りたのは本町駅。地上の出入り口はガラス張りのお洒落なもので、御堂筋の景色に合ったものです。

旧大阪市交通局のマーク

駅の近くには旧大阪市交通局のマークが残されていました。大阪市交通局が大阪メトロになったことで、かつてのマークは順次新しいシンボルマークに変更されていますが、一部にはこうして残されています(写真は取材時点のもので、変更されている場合があります。予めご了承ください)。

御堂筋

さて、地下を御堂筋線が走るこの御堂筋。南行き一方通行にもかかわらず6車線をもつ広い広いこの道路が大阪のメインストリートであることに異論はないかと思います。

御堂筋の歴史は中世に遡るとされています。現在の御堂筋は梅田からなんばまで続く道路を指しますが、中世から近代にかけての御堂筋は南半分を指し、北半分の淡路町以北は淀屋橋筋と呼ばれていました。当時の御堂筋は大坂城下の街路の一つに過ぎず、交通量はさほど多くなかったと言われています。

北御堂

普段はあまり意識せず「ミドースジ、ミドースジ」と言っていますが、「御堂」と言うからにはその由来の御堂は勿論存在します。こちらは「北御堂」と呼ばれる本願寺津村別院です。オフィスビルの建ち並ぶ市街地に大きな伽藍を持つ寺院で、創建は江戸幕府が開かれる直前の慶長2(1596)年です。この地の北側の「津村」に設けられた信徒の集会所が始まりで、江戸時代半ばに焼失したものが享保19(1734)年にこの地に再建されました。市街地の中では目立たない存在ではありますが、間違いなくこの周辺で一番古くからあることになりますね。

現代的な街並みが続く市街地の中にも歴史あり。次回はもう少し御堂筋を歩いてみたいと思います。

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淡路鉄道を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、淡路鉄道を歩いてみたいと思います。

洲本駅跡

淡路鉄道の洲本駅跡はバスの営業所となっていますが、営業所からの出口付近で歩道が広がっていて、鉄道の痕跡を思わせるものがあります。この先、線路跡はほぼ道路となって福良を目指していきます。

洲本駅前ガソリンスタンド!?

何も痕跡がないなと思いながら歩いていたところで発見したのが、営業所横のガソリンスタンドです。なんと、このガソリンスタンドの名称は「洲本駅前店」!? 洲本駅も洲本バスターミナルもなくなったのにガソリンスタンドだけが「洲本駅前」を名乗り続けているのは何だか不思議です。

洲本城を見上げる

駅跡からは街並みの向こうに三熊山の頂の洲本城を望むことができました。
鉄道はなくなり駅も姿を変えてしまいましたが、この景色はかつてと変わらないのでしょう。

淡路島の人々に愛され、多くの通勤・通学客を運んだ淡路鉄道ですが、モータリゼーションの進展により利用者は減少。さらに、バス路線の拡充によって鉄道利用者がバスに流れて鉄道部門は大きな赤字を計上するようになりました。合理化などによって鉄道部門の収支改善が図られましたが、最終的には鉄道の存続を断念することになります。現在、かつて淡路鉄道が走っていた路線には淡路交通(淡路鉄道と全淡自動車が合併)の縦貫線が走っていて、淡路島内路線の基幹となっています。

福良バスターミナル

淡路鉄道の線路跡の多くは道路となっていて痕跡は多くありません。縦貫線のバスで福良に着いてみると、駅跡はやはりバスターミナルになっていました。しかし、どことなく駅の雰囲気が残っているような気がするのは気のせいでしょうか。バスターミナルの先には青々とした鳴門海峡が広がっていました。

廃止から今年で半世紀となる淡路鉄道。しかし、こうして特別展が催されるなど、今も多くの人々に愛されていたことが感じられます。
間もなく、行楽にはほどよいシーズン。淡路鉄道の痕跡を巡りつつ、淡路島を歩いてみてはいかがでしょうか。

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淡路鉄道を訪ねて(前編)


早春の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

洲本城址

今回訪れたのは淡路島は洲本
何だか遠い所のような気がしてしまいますが、山陽電車の舞子公園駅に隣接する高速舞子バスストップから高速バスですぐ。意外と近いところにあります。
市街地のお堀の端から眺めるのは以前訪れた三熊山の洲本城です。

洲本市立淡路文化史料館

今回はなかなかつらい目(?)にあった洲本城に上ることなく、山の麓にある洲本市立淡路文化史料館を訪ねました。この資料館のある場所は三熊山の上にある山城「上の城」に対して「下の城」と呼ばれた城郭の跡地にあり、そのためか淡路島の名産の淡路瓦を使った和風の建築になっています。

廃線から半世紀 淡路鉄道展

この史料館では現在「廃線から半世紀 淡路鉄道展」と題してかつて淡路島を走っていた淡路鉄道(後の淡路交通)の資料を展示する特別展が開催中です。

淡路鉄道はかつて洲本と鳴門海峡に面する福良を結んでいて、大正11(1922)年の洲本口(後の宇山)~市村間の開業に始まり、大正14(1925)年に全線開通を果たした鉄道です。開業当初は蒸気機関車による運行でしたが、戦後の昭和23(1948)年には電化し、戦後では唯一の離島(北海道・本州・四国・九州を除く島)の鉄道として親しまれてきました。特別展では、淡路鉄道の現役当時の映像や切符や時刻表などの資料が展示されていて、何だか、今でも走っているのではないかと思えるくらい生き生きした鉄道の姿を見ることができました。

洲本駅跡

高速バスや一般路線バスの発着する洲本高速バスセンターの斜向かいに淡路交通の本社に隣接した営業所がありました。こちらがかつての洲本駅の跡です。鉄道廃止後、駅跡は洲本バスターミナルとなりましたが、それも洲本高速バスセンターの完成で機能移転し、現在はバスの営業所となっています。かつての痕跡はほぼありませんが、ホームのような上屋沿いにバスが並ぶ光景はどこか鉄道駅を思わせるものがありますね。

島の電車として親しまれ、廃止から半世紀になる淡路鉄道。次回はもう少し淡路鉄道の痕跡を訪ねてみたいと思います。

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