せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

妻鹿に黒田官兵衛を見た~後編~

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こんにちは、左馬頭です。

国府山城からスタートした妻鹿散策ですが、後編は古い町並みを歩きました。
前編はこちら

ここで妻鹿の歴史について少しだけ・・・

妻鹿の地名は、応神天皇の時代に2頭の鹿が現れ、雄鹿は男鹿島へ雌鹿が付近の山中に逃げたことに由来しているとか。その後、明治22年(1889年)市町村制施行により飾東郡(しきとうぐん)妻鹿村となり、昭和2年(1927年)に妻鹿町、そして飾磨町、飾磨市を経て昭和21年(1946年)姫路市の一部となりました。

旧妻鹿町役場


妻鹿駅の南側には昔からの町並みが広がります。見えてきたレトロな建物は旧妻鹿町の役場として使われたもので、今は妻鹿自治会館となっています。

少し歩くと、「固寧倉(こねいそう)」とよばれる建物が・・・


現代でいうところの防災倉庫で、飢饉や災害に備え、非常食を備蓄していたそうです。江戸時代後期、文化6年(1809年)につくられたもので、姫路藩内、288ヶ所に存在したそうですが、現在はここを含めて6ヶ所が残るのみです。固寧倉の建設を進めたのが、姫路藩家老であった河合寸翁(かわいすんのう、1767~1841年)で、新田開発や特産品であった木綿の専売制を導入するなど、火の車だった姫路藩の財政再建を成し遂げた人物です。余談になりますが、姫路のお菓子として有名な「玉椿」を命名したのも河合寸翁だそうです。

固寧倉の近くには、平成23年に建て直された屋台倉が・・・。灘のけんか祭りで有名な松原八幡神社の秋季例祭時に担がれる屋台が納めされているそうです。

さらに南側へ進み、浜国道(国道250号線旧道)を越えると妻鹿漁港魚市場跡の碑がありました。

妻鹿漁港魚市場跡の碑


妻鹿の南部は、今では埋め立てが進み工業地帯となっていますが、昔の海岸線はこの辺りだったのかもしれません。大正5年(1916年)に魚市場が創設され、鮮魚の集積地として賑わったそうです。山陽電車の妻鹿駅は大正12年(1923年)の開業ですが、当時は貨物専用ホームがあり、鮮魚の出荷が行われていたということです。魚市場は昭和32年(1957年)に開業した中央卸売市場へ、漁港は昭和57年(1982年)に埋め立てが完了し、東南の白浜地区に移っています。

最後に妻鹿の風景を一枚。
松原八幡神社御旅所への参道近くから撮影しました。写真右側の山が国府山城、左側が旧妻鹿町の中心部になります。今日歩いてきたところが一望できます。

国府山城から黒田職隆廟所を経て、昔の町並みを巡る旅、ちょっと懐かしさを感じる町“妻鹿”2時間あまりの小旅行でした。

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もうすぐ完成?置山を見る~三ツ山大祭~ 

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こんにちは。左馬頭(さまのかみ)です。
播磨国総社で行われる20年に1度の「三ツ山大祭」、シンボルである置山(おきやま)造営の進捗をお伝えします。

位置関係が少し分かりにくいので、まずは見取り図を。

神門の南側に、東から二色山(にしきやま)、五色山(ごしきやま)、小袖山(こそでやま)とならびます。

2月中ごろの写真です。

左から五色山、小袖山です。足場が組まれ、内部が木造であることがわかります。

高さは18メートル、4,5階建てのビルに相当します。この山の頂上に神様をお迎えするお社、山上殿(さんじょうでん)が造られます。

2月25日の二色山の様子です。

同じく、2月25日の五色山(左)、小袖山(右)

二色山、五色山は外側に色布が張られました。

3月3日の二色山(左)、五色山(右)

足場がなくなった二色山(左)には装飾が。

猪に乗っている武士の姿があります。新田四郎猪退治(にったしろうししたいじ)といいますが、狩りをしていた源頼朝に突然襲いかかった猪に対して、家来の新田四郎が猪に飛び乗り刀で刺し倒したというエピソードを表現したものです。写真では分かりにくいのですが、左側の白馬に乗っているのが頼朝公です。

3月9日の五色山です。後ろは小袖山。

五色山にも「大江山、源頼光(みなもとのよりみつ)の鬼退治」の装飾が。大江山(京都府北部)を拠点に都周辺で悪行を働く鬼を、源頼光やその家来であった頼光四天王(らいこうしてんのう)と呼ばれる武士がやっつけるというエピソードです。詳細な内容は省略しますが、鬼を油断させ退治するまでのやりとりや、鬼の所業については昔話にもなるなど、興味はつきません。

関心のある方は、酒呑童子(しゅてんどうじ)渡辺綱(わたなべのつな)坂田金時(さかたのきんとき)といった言葉で検索願います。坂田金時はあの「金太郎」の成人後の名前です。

写真を見て気付きましたが、肝心の鬼が写っていません。ごめんなさい(>_<) ぜひ現地でご覧下さい。

最後に山陽電車の看板を

この投稿がUPされるころには、カラフルな小袖で飾られる小袖山も出来上がっているのではないでしょうか。

三ツ山大祭は3/31(日)からです。

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妻鹿に黒田官兵衛を見た~前編~

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こんにちは、左馬頭(さまのかみ)です。

2014年(平成25年)大河ドラマの主人公「黒田官兵衛」を求めて、ゆかりの地といわれる山陽電車妻鹿(めが)駅周辺を散策することにしました。なお、写真は昨年(2012年)12月末のものです。

同行した“あまQ”くんの記事はこちらから。

体育会系歴史部としては硬派に行きたいと思っています。

まずは、市川橋梁からの国府山城(こうやまじょう)です。
国府山城は妻鹿城(めがじょう)、功山城、甲山城などいくつかの呼び名があります。国府山は播磨国府が近いことと関係があるのでしょうか。甲山は硬そうな山を連想します。登ってみてわかったのですが、確かに岩山に築かれた城です。

妻鹿駅改札前では、最近設置された黒田官兵衛に関する看板が目を引きます。国府山城への道筋をチェック。

城山のふもとの荒神社まで、市川沿いの道を約10分ほど歩きます。

荒神社横には、妻鹿城址の立派な石碑が。

ここが登山道の入口で20分ほど山道を登ります。夏に訪れた時は登山道がどこかわからないほど草木が生い茂っていましたが、最近手入れされたようです。それでも軽い登山になるので、歩きやすい服装で上ってくださいね。

案内標識を見落とさないように。

本丸跡?につきました。倒れかけの看板

かなり年季が入っていますが、興味津々です。標高約100メートルの甲山に築かれた城だけあって、見通しはかなりのものです。守護大名赤松氏の本拠である置塩城(おじおじょう)や、三木氏の居城、英賀城(あがじょう)まで十分視界に入ります。この看板には記載がないのですが、海上交通の要衝、室津にあった室山城(むろやまじょう)も有視界だったようです。江戸時代以降の埋め立てで海岸線は南にシフトしていることを考えると、戦国時代は国府山城が海上交通と河川交通の結節点である市川河口に位置していたと思われます。かなり重要性は高かったのではないでしょうか。

本丸跡からの眺望です。約4.5キロ先の天空の白鷺姫路城)をはっきりと視認することができます。

黒田官兵衛と父、職隆(もとたか)が、羽柴秀吉に姫路城を譲って国府山城に入ったのが、天正5~8年(1577~1580年)頃といわれています。この時期、官兵衛は秀吉の軍師として三木城攻めに従事、さらに叛旗を翻した荒木村重説得のために訪れた伊丹有岡城で1年余幽閉されていました。有岡城から救出された後も、官兵衛は秀吉と共に各地を転戦することになるので、実質的に国府山城にいた期間は短かったのかもしれません。おそらくは隠居した父、職隆が留守を預かり、領民とのコミュニケーションをとっていたのではないでしょうか。

官兵衛を支えた家臣の中で、特に優れたものを「黒田二十四騎」と言いますが、妻鹿出身といわれる母里太兵衛(もりたへえ)など、その多くが播磨から輩出されていることは、官兵衛と妻鹿の関係を示しているといえるでしょう。

我々は歴史の結果を知っていますが、当時、織田信長の先進性に目をつけ、秀吉に居城を譲るという官兵衛の行動は離れ業に違いありません。

さて、国府山城をあとにして、元宮八幡神社へ(約30分)。

御旅山の山上に移る以前の御旅山八幡神社の元宮であったそうです。境内には藤棚(写真右側)が。5月がシーズンでしょうか、色づいた頃に来てみたいです。

続いて、黒田職隆廟所

地元では「チクゼンさん」と呼ばれて親しまれているそうです。

官兵衛の父、職隆について少しだけ、
官兵衛の蔭に隠れがちですが、職隆も温厚で優秀な人物であったといわれています。元々黒田氏は職隆の父、重隆(しげたか、官兵衛の祖父)の時代に播磨に移ってきて、“目薬”の販売で財をなし、この地域を支配していた小寺氏(こでらし)に仕えます。職隆は、小寺氏の家老として姫路城を預かるなど、外様の家臣としては異例ともいえる出世をします。職隆自身が小寺氏当主の息子であったという説まであるくらいです。ともあれ地盤を官兵衛に譲り、国府山城で留守を守り、天正13年(1585年)亡くなったと伝えられます。

少々長くなってしまったので、妻鹿の町並み散策は後編とします。

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駅から3分!綱敷天満宮で観梅

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今週はかなり暖かくなりましたね。もうすぐ桜のシーズンですが、その前に梅を見に行きたくなったS係長改め左馬頭(さまのかみ)です。

今日は須磨寺駅からスタート

目的地は綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)、踏切を渡り約3分で見えてきました。ほんとに駅から近いですね。

綱敷天満宮(正面から)

道真公がサーフィン?

何やら不思議な看板が。この看板の意味については後ほど。

境内に入ると、梅が見ごろです。

ぽかぽか陽気の中、ほのかに梅の香りが…。

まだつぼみの梅もありました。

色々な品種が植えられているようです。

~ここでちょっと道真公の復習を
菅原道真(すがわらのみちざね:845~903年)
学問の神様、天神さんとして有名な道真ですが、学者の家に生まれます。時の天皇に重用され朝廷内で改革を推進し、中級貴族としては異例の政権NO.2“右大臣”まで昇進するのですが、大貴族である藤原氏と対立し讒言の結果、大宰府へ左遷され失意のうちに亡くなります。~

ところでなぜ道真を天神さまと呼ぶのでしょうか。道真の死後、都では雷など天変地異が相次ぎ、道真の怨霊が原因といわれたそうです。そこで、雷の神様(天神)を道真に重ねて天神さまとなったようです。

大宰府への下向にあたり、道真がたどった行程は、平安京から淀川を下り渡辺津(わたなべのつ、大阪市)へ。その後、海路をとり途中、須磨の地にも立寄ったそうです。このルートについても一部陸路があったなど、諸説あるようですが。

綱敷(つなしき)のルーツがこちら

ここを訪れた道真に、地元須磨の漁師たちが綱を渦巻き状に巻いてお座りいただいたそうです。こういった伝説が各地に点在する天満宮にもあるのでしょうね。

その他、神社の境内には、こんなものも…

なすのこしかけ

ナス」は「成す」に通じていることから物事が成就するということで縁起がいいそうです。そういえば、初夢に見るものとして「一富士、二鷹、三茄子」と言いますね。腰掛はここのオリジナルなのでしょうか。

見て楽しむ“しかけ”が多くあります。普通の神社ではあまりないですよね。

そして、気になったこれですが…

波乗り祈願

なるほど。国道2号線を挟んで神社南側は須磨海岸。サーファーで賑わいます。「時代の
荒波に乗り1人でも多くの方が幸せになることを祈願している」とのこと。うまいなぁ。幼少の頃の道真公がモデルだそうです。

思うつぼかもしれませんが、買ってしまいました。波乗りストラップ800円也。

須磨寺駅から3分の綱敷天満宮、梅はまさに見ごろです。須磨寺方面と組み合わせてまわってみるのもいいかもしれません。

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