せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

祭と塩田・白浜を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、姫路の白浜を歩いてみたいと思います。

桟敷席

松原八幡神社の前にはこんな施設がありました。
こちらは「灘のけんか祭」の際に使われる桟敷席です。
前回もお話しました通り、2020年の灘のけんか祭は新型コロナウィルスの影響で屋台練り・神輿合わせの中止が決まっています。いつもならもうしばらくすれば賑わうはずの桟敷席はどこか寂しげに見えました。

「灘のけんか祭」の歴史ははるか中世に遡るとされています。元々の祭礼は「放生会」として行われていました。前回訪れた隣の八正寺は松原八幡神社の少し前の神亀元(724)年の創建とされ、松原八幡神社の創建後は神社の神宮寺となりました。中世に播磨の守護大名となった赤松氏の庇護を受けた松原八幡神社と八正寺は、僧兵を抱えて大きな勢力を持つようになりますが、応仁の乱が勃発した応仁元(1467)年、赤松氏と対立する山名氏の軍勢の攻撃を受けて焼失してしまいました。後の永禄元(1558)年に赤松政則の手によって神社と寺は再建され、その際に政則は神社に田んぼと米二百俵を寄進。氏子たちは喜んでその米俵をかついで御旅山(宮山)に上ったそうで、それが今のように御旅山へ渡る祭礼になった由来とされています。

松原八幡神社の楼門

桟敷席から神社へと戻り、楼門を眺めてみます。

現代のような祭になったのは明治時代に入ってからで、神仏分離令により八正寺が神社から切り離され、氏子中心の祭になったことがきっかけでした。激しい祭は、今や播磨の秋を彩る風物詩ですね。

水路

神社から少し歩くと水路がありました。今では細い水路ですが、ここはかつて入り江になっていて、松原八幡神社の門前まで海岸が迫っていました。そして、入り江の東側には塩田が広がっていました。この入り江では昭和初期に埋め立てられるまで、「灘のけんか祭」の本宮の朝に年番(練り番)の地区の人たちが海に入って身を清める潮かきが行われていました。

塩田の村

東に向かって歩いていくと、宇佐崎地区に入ります。この辺りは浜側の塩田で栄えた村でした。塩田で栄えたエネルギーが祭にも発揮されていたのでしょうか。ただし、この地域の発展を支えた塩田は戦後に姿を消しています。塩田だった場所のうち内陸部は住宅地になり、播磨灘沿いの一帯は広大な工業地帯となりました。「灘のけんか祭」の潮かきは工業地帯の向こうの白浜海水浴場で今も行われています。

地域の姿が変わりながらも播磨の秋の風物詩として執り行われている「灘のけんか祭」、来年はいつものように開催できることを心から願いながら、白浜を後にすることにしました。

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