せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

浪速の今宮を訪ねて(前編)

投稿日:



春も近いこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

今宮戎駅

南海電車で着いたのは今宮戎駅

今宮戎駅を眺める

今宮戎駅は南海難波と新今宮の間にあり、多くの電車が行き交いますが、この駅に停まるのは高野線への電車だけです。そのためか、街中にありながら駅はひっそりとしていました。

今宮戎神社

駅からほどなくの場所にあったのが、駅名の通り、今宮戎神社です。

大阪ミナミの街中にある今宮戎神社の歴史は非常に長く、推古天皇8(600)年の創建と伝わっています。伝説では、聖徳太子が四天王寺を建立した際に、西方の守護として建立したとも伝わっていますが、本当のところははっきりしていないようです。

今宮戎神社の境内

境内は広々としています。ただし、毎年1月の十日えびすには100万人もの参拝者が訪れるとのことで、この広い境内も人で埋め尽くされるのでしょう。

大阪の繁華街の中にはるか古代からの史跡が眠る今宮。
次回、もう少し歩いてみたいと思います。

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東風吹かば・須磨を歩いて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨を歩いてみたいと思います。

梅の香りの道

菅の井から住宅地の中を歩いていると、綱敷天満宮の裏手に出ました。玉垣の向こうには梅園が広がっていて、梅の香りがします。

天神橋

綱敷天満宮に行きたいところですが、その前に気になるところを。
こちらのJRの線路を跨ぐ陸橋は天神橋です。戦前の昭和2(1927)年の竣工で、鉄筋コンクリートながら、どっしりとした造りが戦前の建築らしく立派ですね。

天神橋を潜る道

橋の下には南側に抜ける通路がありました。ブロックで装飾された通路の入り口は風格がありますね。かつてはこの橋の上を道路だけでなく須磨駅への神戸市電も走っていました。

綱敷天満宮

天神橋のたもとには綱敷天満宮があります。

綱敷天満宮は平安時代の天元2(979)年の創建とされ、かつて大宰府へ向かう菅原道真がこの地で綱を巻いた上に座って休憩をしたことから、周辺の住民が道真を偲んで神社を建てたという伝説から名前が付けられたとされています。ただし、この「綱敷」という名前の天満宮は京都から九州にかけて広く分布しているようで、同じような伝説が各地に広がったのか、それとも道真が各地で綱の上に座っていたのかはわかりません。

梅園

境内には梅園が広がっていて、梅のいい香りを楽しむことができました。道真と梅といえば、「東風吹かば」の歌を思い出しますね。

暖冬に感染症と、物々しいこの頃ですが、道真と梅を訪ねて、心安らぐ須磨の地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

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東風吹かば・須磨を歩いて(前編)

投稿日:



早くも寒さが緩みつつあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

月見山駅

山陽電車で着いたのは月見山駅

厄除八幡神社の碑

駅から程なくの場所にあるのは、多井畑厄神への道標の石碑です。

菅の井

道路沿いに歩くと、小さな神社と井戸のようなものがありました。
こちらは元宮長田神社菅の井です。

平安時代、左遷され大宰府に流されることとなった菅原道真は船で沖合を通りかかり、この地で休憩を取りました。その際に、この地に屋敷を構えていた前田氏が道真に井戸水を届けたという伝説があります。その時の井戸は後に「菅の井」と呼ばれるようになりました。

元宮長田神社

菅の井の傍にあるのは元宮長田神社です。この神社はもともと前田氏の屋敷の中にあったそうです。この辺りは中世に一帯が東須磨の證誠神社の氏子になるまでは長田神社の氏子だったそうです。前田氏は長田神社と深いつながりがあったとされていて、その名残か、こうして現在も長田神社に所縁のある神社が残されています。

梅の名所となっている須磨には菅原道真所縁の史跡がまだあります。
次回はもう少し須磨を歩いてみたいと思います。

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阪神間に眠る古墳・菟原を訪ねて(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、灘区の菟原と呼ばれた地域を歩いてみたいと思います。

処女塚古墳

処女塚古墳
を後にすることにします。

都賀川

阪神本線の新在家駅前を通り過ぎ、住宅地を歩いていくと、川に差し掛かりました。こちらは都賀川で、上流に目を向けると、冬の澄んだ空の下に連なる六甲山地を眺めることができました。

船寺神社

阪神大石駅前
からの商店街を歩いていくと、大きな神社がありました。こちらは船寺神社です。

船寺神社の境内

船寺神社は神功皇后の三韓遠征に由緒を持つ神社とされています。かつてこの地は深淵と呼ばれる入り江で、神功皇后が三韓遠征に赴く際に船を停泊させたという伝説があります。ただ、神殿が設けられ、神社の体裁になったのはずっと時代が下った平安時代の永保2(1082)年とのこと。入り江があった痕跡は見当たりませんが、かつては複雑な地形だったのでしょうか。ちなみに、現在は神社の北側を走っている阪神本線ですが、昭和42(1967)年に高架線が開通する前はこの神社の南側の今とは全く異なるルートを通っていました。

西求女塚古墳

船寺神社から西に歩くと公園がありました。単なる公園かと思ったら、こんもりとした盛り上がりがあります。こちらは西求女塚古墳です。

前回訪ねた処女塚古墳には菟原処女(うないおとめ)という女性が埋葬されているという言い伝えがありますが、こちらの西求女塚古墳には菟原処女を巡って争った男性の一人の菟原壮士(うないおとこ)が埋葬されているとされています。ただ、調査ではこの古墳が築造されたのは3世紀後半とされ、処女塚古墳よりも古いとされています。実際の被葬者ははっきりとはわかっていませんが、この地を治めた豪族の墓ではないかと考えられています。この古墳、地図で見ると前方後円墳のように見えますが、実際は前方後方墳だそうで、発掘調査では三角縁神獣鏡が見つかるなど、貴重な文化財が出土しているようです。処女塚といい、以前訪ねた阿保親王塚古墳といい、この辺りに大和政権とは異なる勢力がいて、大阪湾岸を押さえていたのであろうことを感じられ、何ともロマンがありますね。

西求女塚古墳を眺める

西求女塚古墳を眺めてみました。

市街地の中に古代へのロマンが眠る菟原、古墳だけでなく、何だか神功皇后と深淵の伝説も、この地域が大阪湾の海運の中で重要な地域だったことを感じさせますね。公園となった前方後方墳の向こうに、今とは全く異なる古代の景色が広がっているような気がしました。

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阪神間に眠る古墳・菟原を訪ねて(前編)

投稿日:



暦の上では春ですが、まだまだ肌寒い日が続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

石屋川駅

阪神電車で着いたのは石屋川駅

石屋川

駅の下を流れる石屋川の畔に出ると、六甲山地を眺めることができました。

御影塚町

かつて御影町だったこの辺りの住所は「御影塚町」です。「御影」はわかりますが、「塚」とは…?

処女塚古墳

「塚」の正体はこちらの処女塚古墳(おとめづかこふん)です。

処女塚古墳は4世紀の古墳時代に築造されたとされています。被葬者はわかっていません。「処女塚」という不思議な名前ですが、伝説では、この地に住んでいた菟原処女(うないおとめ)という女性が二人の男性から求婚を受けますが、男性は菟原処女を巡って激しく争うようになります。それを嘆いた菟原処女は自害し、二人の男性も後を追うように命を絶ちました。村人は菟原処女の墓として塚を築いたのがこの処女塚とのことです。

処女塚に上る

処女塚古墳は陵墓にはなっておらず、墳丘に上ることができます。伝説では菟原処女の墓とされていますが、本当はこの地域の豪族の墓なのでしょうか。

阪神間の街中に古墳が眠る菟原と呼ばれたこの辺り、もう少し歩いてみたいと思います。

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