せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

別府川と工業の街・別府を歩いて(前編)

投稿日:



梅雨入りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽別府駅

山陽電車で着いたのは別府駅
直通特急は停まらない駅ですが、利用者は多く賑わっています。

駅前の賑わい

駅前には大きな商業施設があり、アメリカ・シアトルに本社のあるコーヒーチェーンを始め、ロードサイドの店舗も多く建ち並んでいて、日曜日ということもあり家族連れで賑わっています。播州でこういった商業施設があるのは工場の跡地か…と思い古い地図を開いてみると、「多木製肥所」の文字がありました。

多木製肥所は現在の多木化学で、多木久米次郎が明治18(1885)年に創業し、ここ別府に本社を置く肥料・化学メーカーです。日本で初めて人造肥料を開発したメーカーとして知られるほか、この地域では自社製品の輸送のために別府鉄道を運行し、ちょうどこの辺りには「別府港駅」がありました。

多木化学本社

商業施設の南側へ歩くと、黒い洋風建築が見えてきました。こちらは多木化学の本社で、大正4(1915)年に建てられたものです。黒塗りの壁と軒下に記された鍬が印象的ですね。

別府住吉神社

さらに海側に向かって歩くと、神社が見てきました。こちらは別府住吉神社です。

肥料主碑

神社の裏手には石碑がありました。石碑には「肥料主」と刻まれています。この石碑は多木久米次郎が建てたもので、元々はこの上に久米次郎の像が建っていたようですが、戦時中に供出されてしまいました。それにしても、「肥料王」ではなく「主」とは一体…というところですが、流石に「王」は自称しにくかったのでしょうか。

多木浜洋館

石碑と向かい合うように。洋館がありました。こちらは「同比閣」とも呼ばれる多木浜洋館です。
もともとは多木製肥所の迎賓館として建てられたもので、外壁には銅板が張られていたために「あかがね御殿」とも言われていたようです。かつてのこの辺りは製肥所や集落があるほかは田園地帯が広がっていたようですので、三階建ての洋館は非常に目立つ存在だったのではないかと思います。

工業地帯として発展し、その跡地に生まれた商業施設で今も賑わう別府、もう少し歩いてみたいと思います。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ にほんブログ村

別府川と工業の街・別府を歩いて(前編)” への1件のコメント

  1. ブログ主様へ

    肥料主碑について、家族から聞いた話です。
    戦前、祖父が多木化学で働いていた時、その碑は「肥料王」だったそうです。
    ところが、ある時、皇族のご啓幸で、その碑を見た宮内庁からクレームがあり、点を加えて「肥料主」に変わったそうです。

    私もこの碑を見たことがありますが、なかなか迫力があります。
    それから、高砂荒井神社の西側の鳥居は、多木化学が寄進したもので、
    当時の隆盛が想像できます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。