せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

阿閇の里・二子を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、播磨町の二子地区を歩いてみたいと思います。

普光寺

しおくみ道を少し外れて、西へ歩くと、白壁と高い鐘楼が印象的な寺院が見えてきました。こちらは普光寺です。
室町時代の延徳3(1491)年の創建と伝わる由緒ある寺院のようです。

秋ケ池

普光寺よりさらに西へ向かうと、大きな池が見えてきました。こちらは秋ケ池です。周辺にはこうした灌漑用のため池が多くあり、古くから水に悩まされてきたことをうかがわせます。

新井用水

秋ケ池から山陽電車の線路沿いに出ました。線路の下を小川のような流れが横切っています。よくある水路のようにも見えますが、実はこの地域に欠かせない存在です。

交通の要衝として栄えた二子ですが、一方で農業はというと、印南野台地の上に当たり、水に恵まれなかったためか、平らな土地が広がる割には今一つだったようです。これは二子に限らず、周辺の地域にも共通していたようです。この状況を解決したのが、この水路「新井(しんゆ)用水」でした。用水を開いたのは古宮村の庄屋だった今里傳兵衛という人物で、一年余りの難工事の末、明暦2(1656)年に開通したそうです。この用水の開通で、加古川から分かれる五ケ井用水の水がこの地域にも流れるようになり、盛んに新田が開発されるようになりました。

新井用水を眺める

住宅の合間を流れる新井用水を眺めてみました。電車の車窓からでは見逃してしまいそうな細い水路ですが、この地域に田園風景が広がるのはこの水路のおかげなのかもしれません。用水を開いた今里傳兵衛は開通の三年後にこの世を去り、墓は古宮の薬師堂にあるようです。

大池

新井用水の先の山陽電車の線路の南側には大池が広がっています。台地の上の地域を流れた新井用水の水はため池となり、静かにこの地域を潤しています。

交通の要衝として栄え、水に悩まされながら新田を開いてきた播磨町の二子地区。梅雨前の晴れ間に歩いてみれば、新しい発見があるかもしれません。

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