せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

明石・王子を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石の王子を歩いてみたいと思います。

街道の街並み

JRの線路を潜り、さらに北へ向かいます。街道の風情はあまりありませんが、この辺りの道はかつての山陽道です。
現在は明石の市街地と一続きになっていますが、古い地図を見ると城下町とは独立した町が街道沿いにあったようです。

十輪寺

街中に寺院がありました。こちらは十輪寺です。

街中にある小さな寺院の十輪寺ですが、奈良時代に藤原鎌足の孫の藤原宇合(うまかい)が創建したとされていて、千年以上の歴史を持っています。宇合が明石郡内に七体の薬師像を造った際、さらにもう一体造った薬師像をこの寺に安置したとされていることから、別名「八体薬師」とも呼ばれています。江戸時代の寛永16(1639)年には当時の明石城主の大久保季任が堂宇の整備を行ないました。しかし、これらの堂宇は昭和20(1945)年の明石市街を狙った空襲で焼失してしまいました。現在の建物は戦後に建てられたものです。

秀吉ゆかりの杉

十輪寺の境内には焼け焦げた木がありました。こちらは戦国時代、豊臣秀吉が戦勝を祈願して植えた杉の木とされています。昭和の初めには大木となりこの辺りの名勝となっていたようですが、明石空襲で堂宇もろとも焼け落ちてしまい、今は一部が残されているのみです。

嘉永橋

十輪寺から明石川の方へ歩いてみました。川に架かるのは「嘉永橋」で、その名の通り、幕末の嘉永7(1854)年にもともとこの地にあった橋を改築して架けられた橋です。

明石川を眺める

嘉永橋から明石川を眺めてみました。明石城はこの明石川を外堀代わりにしていたことから、江戸時代には明石川に橋はありませんでした。江戸時代の末に相次いで嘉永橋と下流の大観橋が架けられたことは革命的な出来事だったのでしょう。王子の街が発展したのはこの橋の存在があったのかもしれません。

今は明石の市街地と一体になっている王子地区ですが、明石市街とは少し異なった歴史を歩んできました。気候のよい季節、明石でのお買い物などの際などに少し足を延ばして王子の街を歩いてみませんか。

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