せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

島の城下町・洲本を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて淡路島の城下町・洲本を歩いてみたいと思います。

下屋敷町

外町の通りを歩き、曲田山の麓に出ました。外町の南の端の通りには風情ある街並みが続いています。この辺りはかつて「下屋敷町」という地名で、その名の通り洲本城代・稲田氏の下屋敷があったそうです。

旧益習館庭園

街外れにあったのが旧益習館庭園です。もともとは稲田氏が下屋敷内に設けた西荘の庭園で、幕末の嘉永7(1854)年に稲田氏の学問所「益習館」が移ってきたために、益習館庭園と呼ばれるようになりました。

堀端通

旧益習館庭園から堀端通に戻ります。通の東側が内町で西側が外町で、いずれも洲本の古くからの市街地で、「松の内」とも呼ばれています。

洲本の内町と外町を分けた町割りは徳島藩の藩庁のあった徳島の街づくりを思わせます。ただし、吉野川河口のデルタ地帯に形成されて複雑な地形の徳島と比べると、洲本の町割りはシンプルですね。内町も外町も碁盤の目の整然とした町割りなのですが、なぜか、どちらの通りも堀端通と直角に交わっておらず、今でも内町と外町の境界がはっきりとわかります。近世には、内町には藩の行政機関や藩士の屋敷が多く集まり、外町には町人の町屋が集まっていたようですが、入り組んでいるところもあり、厳然と分けられていたわけではなかったようです。

弁天銀座

堀端通沿いに飲食店の建ち並ぶ道がありました。「弁天銀座」または「新開地」と呼ばれている町です。

厳島神社

通の突き当りに大きな神社がありました。こちらは「淡路島弁財天」とも呼ばれる厳島神社です。先ほどの弁天銀座はこの神社の参道だったのでしょうか。創建時期はわかっていないようですが、近世に洲本の城下町が形成されていく中で造られたのでしょうか。

城下町の街づくりにまで徳島の影響を感じさせる洲本ですが、明治に入り、稲田氏と蜂須賀氏との対立から起こった庚午事変により、洲本を含む淡路島は徳島から切り離され、兵庫県に編入されることになりました。

洲本城を眺める

厳島神社の前からは洲本城の模擬天守を眺めることができました。

徳島と兵庫の間で複雑な歴史を辿ってきた洲本。淡路島の観光地の雰囲気とは少し違った、歴史の積み重ねを感じる街並みをゆっくりと歩いてみれば、新しい発見があるかもしれません。

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