北野坂から二宮を歩く(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて北野坂から二宮を歩いてみたいと思います。

二宮温泉

二宮の街中を歩いていると二宮温泉なる入浴施設がありました。源泉は新神戸駅近くですが、中央区の街中に温泉施設があるとは意外ですね。

二宮神社

さらに街中を歩いていくと、神社がありました。こちらは二宮神社です。「生田裔神八社」の一宮神社に続く二柱目ですが、創建時期などははっきりわかっていないとのこと。

前回説明しましたように「生田裔神八社」は生田神社を取り囲むように配置された神社で、北斗七星を表すという説もあります。神社は生田川と湊川(旧湊川)の間に配置されているはずですが、この二宮神社はフラワーロードの東側…、つまり、生田川の外に配置されています。なぜこのような配置になったのかはよくわかっていないようでずが、街中に古代の謎が残されているというのもロマンのある話ではあります。

二宮神社の境内

街中の神社ですが、境内は広々としています。古い地図を見ても存在感はあり、古くから大きな神社であったことが伺えます。

新生田川

二宮神社から東に歩くと、新生田川のほとりに出ました。生田川の付け替えにより、結果的に二宮神社も生田川の西側に収まることになったのは、たまたまなのでしょうか。

神戸の都心で少し謎のある歴史巡りをした後は三宮に戻ることにしました。

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北野坂から二宮を歩く(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、北野坂を歩いてみたいと思います。

一宮神社

北野坂から横道に逸れた街中にあったのが一宮神社です。神戸の市街地に一から八まである神戸八社の一つで、「一」のつけられた神社ですが、街中にひっそりと佇んでいました。

一宮神社の境内

境内は意外に広く、ゆったりとしています。外国人観光客の方の姿もありました。

神戸八社は正式には「生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)」といいます。生田神社を取り囲むようにここ一宮神社から西に向かって数字が大きくなるように配置されていて、一説には北斗七星を表しているとも言われています。八社のうちの三宮神社は神戸の都心の地名となっていますね。

六甲山地を望む

一宮神社を出て加納町の交差点の歩道橋から六甲山地を眺めてみました。ビルの合間から青々とした山がのぞく光景は神戸ならではですね。

二宮

歩道橋の傍らには少し古びたアーチが架かっていました。この先は二宮町です。

次回はもう少し、二宮を歩いてみたいと思います。

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北野坂から二宮を歩く(前編)


早秋の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

三宮

今回降り立ったのは神戸の都心の三宮。
駅前では阪急神戸三宮駅の新駅ビルが工事中です。

北野坂

三宮から繁華街の中を貫く北野坂を歩くことにしました。

北向地蔵

繁華街の雑居ビルに埋め込まれるようにして佇んでいるのは北向地蔵です。

現在は三宮の東側を流れている生田川(新生田川)ですが、かつてはこの傍のフラワーロードを流れていました。昔、その生田川が大雨で増水し、堤防が決壊しかかっていたところをこのお地蔵さんが防いだという言い伝えがあります。お地蔵さんの名前の「北向」というのはかつての堤防があった方を向いていることに因んでいるとのこと。

北野坂の眺め

北向地蔵からさらに歩くと、六甲の山々が近づいてきました。街路樹とビルの合間からは北野異人館街の風見鶏の館が見えます。神戸らしい印象的な景色ですね。

神戸にいるとあまり訪れないかもしれない北野坂、もう少し歩いてみたいと思います。

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木津川のほとり・津守を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて津守を歩いてみたいと思います。

鶴見橋跨線橋

「汐見橋線」沿いに歩いていると古めかしい陸橋が見えてきました。こちらは鶴見橋跨線橋です。もともとは大阪市電阪堺線(三宝線)が「汐見橋線」を跨ぐために設けられたものでした。現在は道路橋となっています。

津守神社

鶴見橋跨線橋の先にあったのは津守神社です。

日本の近代化に伴い工業が発達し、現在は住宅も目立つ津守ですが、もともとは淀川河口から堺へと海沿いに広がる新田の一部「津守新田」でした。津守の新田開発が始まったのは江戸時代の初めの元禄11(1698)年の頃と言われています。大阪湾岸では江戸時代の初めから河川の改修と合わせて新田開発が行われ、広大な田んぼが広がっていました。現在、大阪湾岸には工業地帯が広がっていますが、その土地を生み出したのは江戸時代の新田開発にあったともいえるのでしょうか。津守新田も大阪湾岸の新田の一つとして開発されました。

津守神社の境内

津守神社は津守新田の鎮守として創建された神社と伝わっています。目の前には幹線道路の新なにわ筋が通っていますが、神社の境内は都会の喧騒から離れた静かな雰囲気でした。

津守新田会所跡

津守神社の向かいの小学校・幼稚園の敷地に石碑がありました。小学校と幼稚園はすでに閉校・閉園されていて門は固く閉ざされているのですが、柵の隙間から石碑を見ることができます。こちらは「津守新田会所跡」の石碑です。会所は新田で小作料の徴収を行なったり幕府へ年貢を納めたり、その他、田んぼの維持修繕などを行なう役場のような施設でした。この場所で津守新田の行政を司っていたのですが、今は石碑がその存在を伝えるのみです。

西天下茶屋の街並み

阪神高速の高架を潜ると西天下茶屋の街並みが続きます。

西天下茶屋駅

街の中にあったのが西天下茶屋駅
今は時折電車がやってくる小さな駅ですが、おしゃれな窓があり、丸みを帯びた屋根の駅舎はかわいらしく趣がありますね。かつて高野山への路線として賑わった時代を今に伝えているようです。ホームに上がると、ちょうど電車がやってくるところでしたので、このまま汐見橋に戻ることにしました。

現在は住宅が中心の静かな町となっている津守ですが、歩いてみるとそこかしこに新田開発、そして、工業地帯として大いに繁栄した痕跡を見出すことができます。これから気候のよい秋、買い物ついでに足を延ばしてみませんか。

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木津川のほとり・津守を訪ねて(前編)


残暑厳しい中に秋の気配を感じる頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

津守駅

阪神なんば線から乗り換えた南海電車で到着したのは津守駅。南海高野線の「汐見橋線」とも呼ばれる区間にある駅です。

汐見橋線

「汐見橋線」
とも呼ばれる岸里玉出~汐見橋間が開業したのは明治33(1900)年のことです。当時物資の集散地として賑わっていた木津川に高野山からの木材などを運搬することを計画したといわれています。津守駅の一駅北側の木津川駅には今でも広い貨物駅の跡が広がっています。しかし、早くも昭和4(1929)年には、高野山方面の列車は便利な難波駅に発着するようになり、この区間は支線となってしまいます。現在では2両編成の電車が行きかうどこかのんびりした雰囲気の路線です。

大日本紡績津守工場跡

駅前には西成公園と高校の広々とした敷地が広がっています。かつてこの地には大日本紡績津守工場がありました。明治42(1909)年に操業を開始したこの工場は当時日本最大規模の紡績工場で、この工場への通勤客で津守駅は非常に混雑したといわれています。当時の地形図を見ると、木津川の左岸、田んぼの広がる中に巨大な工場が記されています。日本の綿産業を支えた大工場ですが、太平洋戦争中の空襲で焼失。残された設備で鉄工所となったようですが、それも廃業してしまいました。

津守商店街

駅の近くには大阪らしい雰囲気の商店街がありました。

古い地形図を見ると、大日本紡績の他にも津守には多くの工場があったことがわかります。かつては住宅地となっている現在とは全く違う景色が広がっていたのでしょうか。

もう少し、津守を歩いてみたいと思います。

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