せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨灘を望む・古宮を歩く(後編)

投稿日:



こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、播磨町の古宮を歩いてみたいと思います。

ジョセフ・ヒコ生家跡

古宮の町中を歩いていると、ジョセフ・ヒコの生家跡なる空き地がありました。ヒコはここ古宮に生まれたものの、母の再婚に伴い、隣村の浜田村(現在の本荘)に引っ越しています。

帰国後、アメリカ領事館で通訳として働いていたヒコですが、程なく渡米、再び帰国したのちに領事館で働き始めますが、一年で辞めて商社を設立、さらに元治元(1864)年には横浜で日本で初めての新聞「新聞誌」を発刊しました。ちなみに、この時期、ヒコはまだ20代前半だったそうで、なんとパワフルなことかと驚いてしまいます。「新聞誌」は発刊の翌年に「海外新聞」と改題し、26号まで発行されたそうです。

古宮漁港

路地を抜けると古宮漁港に出ました。南側に人工島があるため水平線はあまり見えないのですが、夏の海はまぶしいくらいに輝いています。

古宮住吉神社

海沿いを歩いていると古宮住吉神社にたどり着きました。海沿いにひっそりとある神社ですが、境内は広く、門は立派です。創建時期は不明とのことですが、歴史のある由緒ある神社のようです。

常夜燈碑

境内には石碑がありました。こちらは常夜燈碑と呼ばれています。

かつてこの場所には常夜灯がありました。戦国時代、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する際に古宮の沖合を航行していたところ夜間に海が荒れはじめたのですが、村人が灯したこの常夜灯の明かりを目印に無事上陸し避難することができたという伝説が伝わっています。「古宮」の地名はこの時に秀吉が命名したとのこと。

海側を眺める

この古宮住吉神社も海に向かっている神社で、村人が普段参拝に使う参道は東側に伸びています。現在、神社の海側には人工島が造成され、境内からは水面がわずかに見えるだけですが、かつては、朝鮮へ向かう豊臣秀吉が上陸し、ジョセフ・ヒコが漕ぎ出した播磨灘が門の向こうに広がっていたのでしょう。ちなみに、ジョセフ・ヒコが漂流する際に乗っていた船は「住吉丸」という名前だそうです。

神社の前に残るかつての防波堤に沿って、古宮を後にすることにしました。

ランキングに参加しています。
お出かけ前にクリックをお願いします!
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。