せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

街道と厄神の里・多井畑を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、須磨の多井畑を歩いてみたいと思います。

義経腰掛の松

多井畑厄神
から道路を渡ってすぐの場所に祠と切り株がありました。こちらは義経腰掛の松と呼ばれています。治承・寿永の乱…いわゆる源平合戦の最中の寿永3(1184)年、源義経一行がここ多井畑厄神で戦勝を祈願し、今は切り株になっている松の木の下で休息を取ったと言われています。ここ多井畑を後にした義経一行が向かったのは一の谷でした。

鏡の井

集落の中に入って見つけたのが鏡の井と呼ばれる井戸です。こちらの井戸は室町時代に成立した謡曲「松風」で知られる松風・村雨姉妹が姿を映した井戸とも言われています。

平安時代の貴族で歌人としても知られる在原行平は、あるとき、時の文徳天皇の怒りに触れて須磨で蟄居を命ぜられました。この時、多井畑の村長の娘である松風・村雨と出会い、須磨滞在の間、寵愛しました。後に行平は赦されて都に戻ることになり、姉妹は尼僧になって行平の居宅跡に庵を結んで行平を偲びました。この庵の跡が月見山駅と須磨寺駅の間にある松風村雨堂と言われています。

松風村雨の墓

さらに集落の中を歩いていくと、民家の庭先なのか何なのかよくわからない空間に松風村雨の墓がありました。松風・村雨自体は架空の人物と言われているのでこの墓が一体どういったものなのかよくわからないのですが、肝心の案内板も風化して判読することができません。

正蔵院

さらに山手に歩くと寺院がありました。こちらは正蔵院というお寺です。

西国街道といえば海沿いを通っているイメージが何となくありますが、六甲山地が海に落ち込む須磨の区間では街道は険しい海岸線を避けて大きく内陸へ迂回していました。月見山付近から内陸に入った街道はここ多井畑を経て下畑、塩屋へと進んでいました。山間の集落ながら、これだけ多くの伝承があり、多井畑厄神という大きな神社が鎮座するのはこの街道の存在があったからでしょうか。

多井畑を眺める

多井畑の集落を眺めてみました。昔ながらの集落の瓦屋根の向こうの丘陵には新興住宅地が広がっています。街道と厄神の町として栄え、さらに戦後は住宅地として開発が進んだ多井畑の現代の景色と言えるのでしょうか。

最後に再び多井畑厄神に挨拶をして、須磨へ戻るバスで帰途に就くことにしました。

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