大倉山界隈を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、神戸の大倉山界隈を歩いてみたいと思います。

矢部町の街並み

大倉山からの坂道を下り、横道に入るとこんな景色が広がります。大倉山があるせいか、この辺りは起伏に富んでいて、道も複雑に入り組んでいます。

平野の一本松跡

街中にお堂があり、大きな切り株がありました。こちらは平野の一本松の切り株で、お堂は地蔵堂です。地蔵堂はかつて十王堂とも呼ばれていたとのこと。この一本松は道しるべにもなっていたそうですが、昭和13(1938)年の阪神大水害の被害を受けて枯れてしまいました。

祥福寺

坂道を上っていくと、大きな寺院に突き当たりました。こちらは祥福寺という禅宗寺院です。

祥福寺は江戸時代の貞亨2(1685)年に雲巌和尚なる僧によって創建された寺院で、網干の龍門寺にもかかわった盤珪禅師が招かれて開山となりました。創建年代が比較的新しいものの、神戸では有数の禅宗の修行場となって、江戸~明治時代を通して栄えてきました。

祥福寺の境内

祥福寺の境内は禅宗寺院らしく静かな雰囲気です。現在も多くの僧侶が厳しい修行をされているとのこと。

五宮神社

祥福寺の隣にあるのが五宮神社です。五宮神社は生田神社を囲むようにして神戸市内に点在する生田裔神八社の一つで、神功皇后が三韓征伐の帰途に参拝したとも伝わる歴史の古い神社です。

五宮神社からの景色

五宮神社からは神戸の街を見下ろすことができます。
祥福寺・五宮神社とも古くから景勝地として知られていて、周辺から多くの人が訪れたそうです。今では街並みの向こうにかすかに海がのぞくだけですが、かつては大阪湾を一望する景色が広がっていたのでしょうか。

夕暮れの坂道を下り、帰途に就くことにしました。

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大倉山界隈を歩いて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
湊川神社を訪ねた前回に続き、今回はさらに山手へと歩いてみたいと思います。

大倉山

湊川神社から中央体育館や文化ホールを挟んだ山側にあるのが大倉山です。地下鉄の駅名にもなっているこの小さな山というか丘は大部分が公園や図書館になっています。

安養寺

山の麓にあるのが安養寺。かつて大倉山はこの寺院に由来して「安養寺山」と呼ばれていましたが、明治時代に実業家の大倉喜八郎が買い取って別荘の用地にしました。明治43(1910)年には神戸市へ寄贈されて公園として整備されることになり、大倉の名前にちなんで「大倉山」と呼ばれるようになりました。

楠寺

安養寺から大倉山公園への入り口を挟んであるのが楠寺こと廣嚴寺(こうごんじ)です。現在は現代的な寺院になっていますが、歴史は古く、南北朝時代に後醍醐天皇の勅願で明極禅師により建立されたと伝わっています。楠木正成は湊川の戦いに臨む前にこの寺を訪れ、明極禅師と問答をしたとのこと。

楠寺の境内

現代的な建物になっている楠寺の境内は少々手狭です。

一時は広大な伽藍を持つ大寺院となった廣嚴寺ですが、後に荒廃してしまいます。再建されたのは江戸時代前期の延宝年間で、大和・達磨寺の千厳和尚なる僧によります。実は、この千厳は楠木正成を非常に崇拝していました。天和2(1682)年、千厳は徳川光圀が楠木正成の墓碑を建立しようとしていることを聞き、自ら江戸まで出向いて請願。光圀はその請願を聞き入れ、楠木正成自刃の地であるこの地に墓碑が建立されることになりました。後に墓碑を境内に含むように楠木正成を祀る湊川神社がこの地に築かれることになったわけですから、湊川神社のルーツはこの楠寺であるといえるでしょうか。湊川神社を参拝するのなら、少し足を延ばして訪れてみてもいいかもしれません。

大倉山を越えて

楠寺を後にし、大倉山の裏に回ると住宅地の向こうに六甲の山々が連なる景色が広がります。
次回はさらに山手へと歩いてみたいと思います。

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大倉山界隈を歩いて(前編)


秋も深まりつつあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

高速神戸駅

今回のスタートは直通特急も停車する高速神戸駅
地下駅ですが、地上に出てみるとこの佇まい…。

湊川神社表門

地下道を上がってすぐ、目の前に現れたのが湊川神社の表門です。
湊川神社は神戸を代表する神社の一つですが、そういえば、このブログではまだ取り上げていませんでした。

湊川神社の境内

境内は広々としています。
神戸で湊川神社と並び称される長田神社生田神社は古代からの長い歴史をもつのですが、湊川神社の歴史は意外と新しく、神社として創建されたのは明治時代のことです。長田神社や生田神社は創建時の敷地の多くは失われてしまいましたが、湊川神社は創建時からほぼ変わらず、敷地は町割りの中に長方形に組み込まれています。

湊川神社の起源は南北朝時代にさかのぼります。足利尊氏らと鎌倉幕府を倒した正成は「建武の新政」において後醍醐天皇に重用され、要職に就きます。しかし、後に後醍醐天皇らと足利尊氏らが対立。正成は後醍醐天皇方の南朝につきますが、 延元元/建武3(1336)年の湊川の戦いで足利軍に敗れ、自害しました。

殉節地

境内の奥に殉節地と呼ばれる一角がありました。こちらは湊川神社の祭神である楠木正成が戦死した場所とされています。

江戸時代になり、南北朝時代関する研究がなされる中で、南朝方についた正成は次第に英雄化されていくようになり、江戸時代後半には墓所の周辺で正成を祀る祭礼が行なわれるようになりました。幕末には尊王の英雄とされ、明治5(1872)年、正成を祀る湊川神社が創建されました。

楠木正成墓所

境内の隅には楠木正成の墓所がありました。こちらは江戸時代に水戸黄門こと徳川光圀が建立したものです。湊川神社の起源とでもいう場所でしょうか。正成を祀る神社には様々な候補地があったようですが、最終的な決め手になったのはこの墓所と殉節地がこの地にあったからだと言われています。

湊川神社を訪ねたところで、さらに山手へと歩いていきたいと思います。

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中崎を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、明石の中崎界隈を歩いてみたいと思います。

明石港

土手のようになった中崎遊園地を下りて明石港の畔に出ました。たくさんの漁船が集まっている光景はまさに漁港という雰囲気。

浜光明寺

港の畔にあったのは光明寺という寺院です。海辺にあることから通称「浜光明寺」と呼ばれているとのこと。ここは観光道路のすぐ浜側にあたり、有名な明石焼きのお店も近いのですが、このお寺はあまり目立たない存在です。

浜光明寺の境内

立派な山門は通り抜けられないので門の横から境内に入ると、明石の街中とは思えないような静かな雰囲気です。

浜光明寺の歴史は古く、鎌倉時代にさかのぼると言われています。創建当時は三木にあったものが、江戸時代に入った元和3(1617)年、三木を領有した明石藩の藩主・小笠原忠真によってこの地に移されたとのことです。古くから明石藩の黒印地として所領の安堵をなされてきました。明治維新後は戊辰戦争で降伏し、明石藩預かりとなった新撰組のうちの6人がここ浜光明寺に預けられたそうです。

浜光明寺裏の街並み

浜光明寺の山側には小さな屋台のような飲食店が建ち並んでいます。昔からこんな雰囲気だったのでしょうか。大きなお寺の横にこんなお店があるのは味わいがあります。

魚の棚

浜光明寺から魚の棚はすぐそば。
賑やかな街中に浜光明寺のような歴史あるスポットがあるのも明石の魅力ですね。のんびり明石の街で買い物をしてから帰途に就くことにしました。

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中崎を訪ねて(前編)


秋らしくなってきたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

人丸前駅

今回のスタートは人丸前駅
高架上にある駅のホームには日本標準時子午線が通っていて、その先には明石市立天文科学館の時計台を望むことができます。

街並みを見下ろす

天文科学館とは反対側の浜側に目を向けてみると、街並みが続き、明石海峡を挟んだ淡路島の山並みを望むことができます。そんな景色の中、気になるのは通の突当りにある瓦屋根です。

中崎公会堂

通の突当りにあったのは中崎公会堂です。まるで寺院のような立派な瓦屋根の建物で驚いてしまいますね。今は海から離れてしまっていますが、もともとは海岸に面して建っていたそうです。

中崎公会堂が建てられたのは明治44(1911)年のこと。明石を象徴する公会堂として建てられたもので、明石瓦が葺かれた屋根は重厚です。現在も市の施設として現役で、内部ではダンスか何かの練習中でした。ちなみに、この公会堂のこけら落としでは夏目漱石が講演したそうです。

中崎遊園地

中崎公会堂の西側には中崎遊園地が広がっています。遊園地…といっても、木々が植えられた公園のような一角です。園内には「明石遊園」の石碑もありました。地図を見れば何となくわかるように、この中崎遊園地はかつての海岸線に設けられたもので、明石港を浚渫した土砂を使って土手のようにしたものです。

ラジオ塔

園内にあったのがコンクリートでできた小さな塔のようなもの。こちらはラジオ塔です。昭和初期、当時は高級品であったラジオの普及のために各地の公園などに設置されたもので、塔の上部にはラジオが収められていました。こちらがいつごろまで使われていたのかはわかりませんが、ラジオ塔の設置自体は太平洋戦争が激化した昭和18(1943)年頃で終わり、戦後のテレビの普及などで使われないようになっていきました。現在では公園の片隅にひっそりと佇んでいます。

次回は中崎遊園地を抜けて明石の街中を歩いてみたいと思います。

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