せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

山上の行楽地・丸山を歩いて(前編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回まで、西代から蓮池の水源を守ってきた大日寺明泉寺まで歩いてきましたが、今回はさらに丸山地区へと歩いてみたいと思います。

神戸市バス4系統

明泉寺の前を行き交うのは神戸駅と大日丘の住宅地を結ぶ神戸市バス4系統のバスです。ノンステップバスが走るごく普通の市バスの路線に見えますが、こちらの路線は神戸市バスが走り始めた1930年代からの歴史ある路線です。

丸山町の街並み

バス道の急坂を歩いていくと、こんな景色が。
右は大日丘へのバス道で、左は坂道に商店街が続いていました。川を挟んだ向かい側の斜面にも住宅が建ち並んでいます。

丸山断層

バス道沿いに崖がありました。説明板によると、こちらは単なる崖ではなく丸山断層という天然記念物とのこと。正式には丸山衝上断層というそうです。大阪湾や六甲山の成り立ちに深くかかわる重要な発見とのことで、某公共放送の某街歩き番組の神戸編で取り上げられていた六甲山地と淡路島の成り立ちに関係しているのだろうなと思うのですが、詳しく説明する自信がありません。

丸山停留所

坂道を登り切り、市バスの丸山停留所に着きました。市バスの古い路線図を見てみると、この辺りには「丸山遊園地前」なる停留所が記載されています。しかし、周囲に遊園地らしきものは見当たりません。

現在は住宅地が広がる丸山地区ですが、戦前は神戸の西の行楽地でした。昭和10年代始めに遊園地が開設され、それに前後して各種施設が充実し、市バスの路線も開設されました。この辺りには遊園地を始め、料亭や別荘などが建ち並び、多くの行楽客で賑わっていたそうです。現在は住宅地の足となっている4系統の市バスも当時は丸山へ遊びに行く人でいっぱいだったのでしょう。

丸山遊園地

丸山停留所から坂道を下ると、神戸市総合療育センターがありました。丸山遊園地はここにあったそうです。遊園地の面影は全くありませんが、当時は家族連れで賑わっていたのでしょうか。

激しい高低差の丸山地区は街歩きにはなかなか辛いところですが、もう少し歩いてみたいと思います。

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長田・宮川を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて、長田の宮川地区を歩いてみたいと思います。

長福寺

長田神社の裏手を歩いていくと、長福寺という寺院がありました。寺院といえば、塀に囲まれて重厚な山門があるイメージですが、この長福寺は特に塀もなくオープンで、山門もありません。枝を横に伸ばした立派な松の木が山門代わりなのでしょうか。

大日寺太山寺道

境内の片隅にこんな道標がありました。「從是大日寺太山寺道」とあります。ここから大日寺と太山寺への道ということですが、太山寺は西区伊川谷町にある古刹ですが、大日寺とは?

大日寺を目指して

長福寺からさらに山手に向かうことに。この辺りは苅藻川に向かって深い谷になっているため、意外と起伏に富んでいます。

平盛俊塚

住宅街の中に小さな石碑を見つけました。こちらは平盛俊塚です。平盛俊は伊勢平氏の武将で、剛腕の持ち主とされていました。一ノ谷の戦いの際にはこの地に陣を敷いていたのですが、鵯越から駆け下りてきた義経の軍勢に討たれて命を落としたそうです。

大日寺明泉寺

さらに坂道を登っていくと、立派な寺院が見えてきました。こちらが「大日寺」こと明泉寺です。

明泉寺の歴史は古く、奈良時代にまで遡るとも言われています。寺伝によると、行基が西代蓮池を造った際、その水源地(今の大日丘町の辺り)に大日如来を祀ったのが始まりと言われています。板宿から妙法寺へ越える道が開かれるまで、太山寺への参詣路はここを経由するルートがメインで、長福寺の境内で見つけた道標もこのルートを示しています。長田の水源を守る寺院として信仰を集めてきた明泉寺ですが、源平合戦の際、先ほど塚を見てきた平盛俊が陣を敷いていたために源氏の激しい攻撃を受けて焼失していまいました。この地に移転し再建されたのは南北朝時代の観応2(1351)年のことです。

明泉寺の境内

明泉寺の境内はそんな激しい歴史があったとは思えないほど、静かで穏やかな雰囲気でした。西代の蓮池は既になくなり、明泉寺を源とする水が潤していた長田の田畑は市街地に変わってしまいましたが、寺は今も長田の街を見守っています。

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長田・宮川を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、長田の宮川地区を歩いてみたいと思います。

新湊川

長田神社の参道を通り過ぎ、高速長田駅の近くへ着きました。橋の下を流れるのは新湊川です。この辺りは現在は新湊川となっていますが、明治時代に新湊川が開削される前までは宮川(苅藻川)と呼ばれる川でした。

源平合戦勇士の碑

新湊川沿いに源平合戦勇士の碑なる石碑がありました。かつてこの地には、現在は高校の敷地になっているところに小平六池、西国街道を挟んだ南側の警察署や区役所になっている敷地に大池という池がありました。源平合戦の際、この池の傍で戦死した武士の石碑がこの地にあり、後に平知章の碑をこの地に移したことで、源平合戦勇士の碑と呼ばれるようになりました。

御船山旧跡

源平合戦勇士の碑とは新湊川を挟んで反対側に御船山旧跡という碑が建っていました。かつてこの地には御船山という小山がありました。

長田神社についてはもはや説明は不要かもしれませんが、神功皇后が創建したとされ、1800年以上の歴史をもつ古社です。この御船山は、伝説では神功皇后が三韓征伐の帰途に船を着けた場所であるとか、長田神社の鎮座の際に船具を埋めた場所であるとか言われていて、古くから長田神社の附属地となっていました。しかし、明治時代の新湊川開削の際、苅藻川を拡幅するために山は切り崩されてしまいました。現在は石碑が残るのみです。

長田神社参道へ

新湊川沿いから長田神社の参道へ戻ることにしました。高速長田駅からの道は商店が建ち並び賑やかでいいのですが、こちらは趣がありいかにも参道といった雰囲気です。

宮川を渡って

宮川に架かる朱色の橋の向こうに長田神社が見えてきました。参道の正面に神社があるのはいいですね。長田神社へのお参りには、史跡を巡りながらこの参道を歩くのもおすすめです。

長田神社へお参りをして、帰途につきたいところですが、宮川はまだ山の方へ続いています。ここからさらに歩いてみたいと思います。

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長田・宮川を歩いて(前編)

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夏も盛りの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

西代駅

今回到着したのは山陽電車の東端の西代駅
直通特急は一部の列車のみしか停車しない駅ですが、山陽電車の起点の駅です。現在は地下駅となっていますが、かつては地上に駅がありました。

西代蓮池公園

駅の北西には西代蓮池公園という公園が広がっています。体育館やプール、野球場などがあり、なかなか充実しています。ちょうど、野球場では少年野球か何かの試合をやっていました。

蓮の池跡

「蓮池」
の名前からわかるように、この公園と隣接する小学校の敷地には、かつてその名も「蓮池」という池がありました。蓮池の歴史は非常に古く、奈良時代にまで遡るとも言われています。言い伝えでは、行基がため池のためにこの地に池を作り、完成の際に蓮の花を投げ入れたそうです。後に、池にはたくさんの蓮の花が咲くようになり、「蓮の池」と呼ばれるようになったとのこと。南側が西国街道に面し、多くの旅人の目に留まったのか、蓮池の名前は色々な書物に登場してきましたが、近代に入り、徐々に埋立てられていきました。明治時代の地図には池が残っていて、地上を走る山陽電車の車窓からも水面を眺めることができたのでしょうが、大正時代に入ると埋め立てが始まり、昭和6(1931)年には完全に埋め立てられてしまいました。現在では公園の一角に石碑と松の木が残るのみです。

大道通

西代蓮池公園から北東へ歩いていくことに。幹線道路は旧西国街道で、この区間では西国への主要街道であっただけでなく、板宿を経て太山寺への参詣路でもあったようで、賑わっていたようです。旧西国街道にちなんで、この通りの両側の町名は「大道通」となっています。

長田神社参道

通りを歩いていくと、真新しい鳥居を見つけました。こちらは長田神社の参道の入り口です。長田神社といえば、高速長田駅から門前の商店街を通って参拝するイメージですが、もともとの参道は旧西国街道に面したこちら側で、地図を見ても、宮川(苅藻川)沿いに神社へまっすぐに伸びる道を確認することができます。

次回は宮川沿いに長田神社へと歩いてみたいと思います。

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王子を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて王子地区を歩いてみたいと思います。

神戸文学館

王子神社から歩くと、レンガ造りの建物が見えてきました。こちらは神戸文学館の建物です。もともとはここ原田の森にキャンパスを設けていた関西学院のチャペルとして明治37(1905)年に建てられた建物です。関西学院のキャンパスが西宮の上ヶ原に移転した後もこの地に残されています。戦災で大きく損壊しましたが、王子公園で開催された日本貿易産業博覧会の際に修復され、現在は神戸にゆかりのある作家の作品を紹介する資料館として使われています。美しい外観で、王子地区のシンボルのような建物ですが、電線や樹木であまりきれいに写真を撮ることができないのが残念です。

上筒井駅跡

神戸文学館からさらに歩いていくと、真新しい建物と緑地のある一角がありました。前回、王子公園駅で謎の線路を見かけたと思いますが、その線路はもともとこの場所に続いていました。阪急電鉄の前身となる阪神急行電気鉄道が十三から神戸までの神戸線を開業させたのは大正9(1920)年のこと。しかし、神戸市や沿線住民と交渉が難航したことから、神戸市街中心への直接の乗り入れはできず、市電が乗り入れていたここ上筒井神戸駅を開設しました。

上筒井駅跡の景色

緑地からは遠くに神戸の港を望むことができました。
上筒井に神戸駅ができてから16年後の昭和11(1936)年、神戸市街へ乗り入れる高架が開通し、新しい神戸駅(現在の阪急神戸三宮駅)が開設されたことで、もとの神戸駅は上筒井駅となりました。上筒井線と呼ばれる支線になったこの路線は小さな電車が行き来するのみとなりましたが、利用が少なく、4年後に廃止されてしまいます。線路の跡は住宅などが建ち並び痕跡は残されていません。

筒井八幡神社
上筒井駅跡の近くに立派な神社がありました。こちらは筒井八幡神社です。平安時代の創建と伝わる古い神社で、境内は広く趣があります。

筒の井

境内に「つゝの井」という石碑の立つ井戸がありました。この井戸自体は残されていますが、昭和に入りトンネル工事などの影響で水は枯れてしまったとのこと。駅名にもなった「筒井」という地名はこの井戸に由来しています。かつてこの地は湧き水を利用した畑作が盛んな地域だったそうですが、阪急の駅ができるなどで開発が進み、かつての面影はありません。「筒井町」「上筒井通」といった地名が、この地が水とともにあった地域であることを今に伝えています。

神戸市民の憩いの場となっている王子地区ですが、歴史を物語るものがひっそりと隠れています。夏休みのお出かけにはいつもと違ったスポットを訪ねてみませんか。

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