せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

網干を歩く(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、網干を歩いてみたいと思います。

あぼし一番街

旧網干銀行本店を眺めてから、さらに歩いていくことに。
「あぼし一番街」なる商店街に差し掛かると、商店だけでなく古い建物が目立ち、少し不思議な雰囲気です。

境橋

商店街の外れに石橋の欄干が道路に埋もれるようにしてありました。こちらは境橋の跡です。かつては堀割に架かる橋だったようですが、道路の拡幅で堀割が埋め立てられ、橋としての機能は失われてしまいました。

古くから港町として栄えた網干ですが、その歴史は少々複雑です。「網干」の地名は市街地の北にある魚吹八幡神社の放生会で村の漁師が漁を休んで網を干し、神社にお参りしたことから、この祭りを「網干祭」と呼んだことが由来とされています。逆に言えば漁業が盛んな地だったということで、沿岸漁業のほか、最近まで海苔の養殖などが盛んに行われていました。揖保川の河口付近に位置することから、江戸時代には龍野藩の港としても整備され、網干川沿いには蔵屋敷が建ち並んでいました。江戸時代の初め、この龍野藩を治めたのは松江から移ってきた京極家でした。しかし、京極家は後に四国の丸亀に転封され、龍野藩は幕府領となりました。後に脇坂家が龍野藩を治めるようになりましたが、重要な港町だった網干には京極家の領地が残り、丸亀藩領龍野藩領、そして、幕府領が混在するという非常に複雑なことになってしまいました。この境橋は龍野藩領と丸亀藩領の「境」にあった橋です。

大覚寺

街中を歩いていくと、大きな寺院が現れました。こちらは大覚寺という寺院です。もともとは山陽網干駅北西の古網干と呼ばれた中世の港町に天福元(1233)年に創建された光接院という寺院で、古網干が揖保川の土砂で埋まり、港湾機能が下流へ移るとともにこの寺院も現在の場所へ移ってきました。天正20(1592)年には豊臣秀吉が宿泊したとの記録があり、当時から大寺院として発展していたことがうかがえます。

大覚寺の境内

訪れたとき、境内にはまだ桜が咲いていて、穏やかな雰囲気でした。網干の街中にこんなに広々とした寺院があるとはちょっと意外で驚いてしまいます。

大覚寺を訪れた後は近代の網干を訪ねてみたいと思います。

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