せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

浪速の住吉を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の住吉を歩いてみます。

反橋

住吉大社
で象徴的な存在がこの反橋(太鼓橋)でしょうか。 この橋の橋脚は秀吉の妻の淀君が奉納したものと言われています。注目すべきはこの橋の架かる池。住吉大社は大阪城付近から伸びる上町台地の南端に位置します。古代の上町台地の西側には海が迫り、砂州や潟湖が広がっていたそうです。かつて反橋の前には砂浜が広がっていたとのこと。橋の架かる池は砂州の中にあった潟湖の名残とのことで、実は住吉大社創建以前にまで遡ろうかという凄まじい歴史をもつようです。

細井川

住吉大社の境内を出ると南側に細井川という川が流れていました。その名の通り「細い川」なのですが、橋から覗き込んで見るとなかなかの深さです。

住吉大社のあるこの辺りは、古代には住吉津(すみのえつ)と呼ばれる港でした。大阪の古代の港といえば難波津が知られていますが、この住吉津は大和川の河口近くに位置し、大和盆地や河内東部からのアクセスに優れていて、大変賑わっていたようです。大陸から奈良へと続くシルクロードの港湾として多数の物資が運ばれ、遣隋使・遣唐使もこの港から旅立ったと言われています。航海の神様とされる住吉大社がここに創建されたのもこの住吉津の存在があったからなのかもしれません。ちなみに、住吉津の入江は先ほどの住吉大社の池や南側にあった潟湖の浅香潟と繋がっていましたが、現在は池や細井川にわずかな名残があるのみです。細井川の深い深い川底は当時の海底の高さなのかもしれません。

浅澤社

細井川沿いに小さな社がありました。こちらは住吉大社の末社の浅澤社で、大社の境内の外にありますが、前回訪れた楠珺社とともに初辰まいりの四社の一つです。こちらには特に授与品はないようなのですが、初夏には境内の池に咲き乱れる杜若の花を楽しむことができます。

住吉津の跡?

南側を通る国道479号線から細井川の方を眺めてみました。不自然にくぼんだ高低差は住吉津の跡でしょうか。

古代には港湾として栄えた住吉津ですが、政治経済の中心が大和川流域から淀川流域に移るなかで難波津に対する優位性を失い、衰退していきました。江戸時代には新田開発が盛んにおこなわれ、大社の目の前まで来ていた海岸ははるか西へと離れていきました。今では地形などにわずかに痕跡を感じるのみです。

住吉行宮跡

細井川を渡った先にあったのが住吉行宮跡です。こちらは南北朝時代に南朝政権が行宮(仮の御所)を置いた跡です。後村上天皇と長慶天皇がそれぞれわずかな期間ですが、行宮として用いたと伝わっています。ここに行宮が置かれたのは住吉大社の神主家である津守氏の協力があったとも言われていますが、現在は住宅地の中に静かにたたずんでいました。

古代には大いに栄えた住吉ですが、今は港としての存在感はありません。しかし、住吉行宮であったり、初詣客が西日本最多と大いに賑わい信仰を集める住吉大社であったり、地形であったり、今もこの地に残されているものがあります。山陽沿線の景色と比べてみながら歩いてみるのも興味深いかもしれません。

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