せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

多聞寺への道(前編)

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初冬の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大門橋停留所

山陽電車の舞子公園駅から山陽バスに乗って到着したのは大門橋停留所
舞子坂○丁目とか本多聞○丁目とか、住宅地らしい停留所の名前が続く中で、何だかちょっと雰囲気の違う停留所名です。

大門橋

バス停の名前になっている大門橋はバス停のすぐ西側、山田川に架かる小さな橋です。
ただし、周囲を見てみても「大門」らしきものは見当たりません。

多聞寺二天大門跡

大門橋から道路を渡って街中に入ってみました。住宅の中に埋もれるように佇んでいたのは多聞寺二天大門跡のお地蔵さん。
大門跡…? 何だか気になりますが、想像の通り、山田川に架かる橋とバス停の名前の由来になったのはかつてここにあった大門なのです。

この辺りはかつて多聞村という集落で、この北側にある古刹・多聞寺の僧坊が建ち並んでいました。その入り口にあったのが多聞寺二天大門で、古くは先ほどのバス停の近くにあったものが応永20(1413)年にこの場所に移されたものだということ。お地蔵さんの前に建つ石碑にも「従是境内本堂塔頭廿三坊之総門敷地」とあるように、この先が23もの堂宇が建ち並ぶ多聞寺の寺領だったのです。創建当初の大門の位置は諸説ありはっきりしていないようですが、移設後の大門は戦前に現在の位置へ移されるまでこの地にあったようで、垂水区のホームページで写真を見ることができます。

西脇地区の街並み

古い歴史のあるのせいか、瓦屋根の民家が建ち並ぶこの辺りの景色は隣接するほかの地区とは少し違った雰囲気があります。

西方院

住宅の建ち並ぶ中を歩いて着いたのが西方院という寺院です。吉祥山という山号からわかる通り、多聞寺の僧坊だった寺院です。

多数の僧坊を抱え、広い寺域をもっていた多聞寺ですが、天正6(1578)から天正8(1580)年の豊臣秀吉の三木合戦の際に大半が焼失し、跡地は村落となってしまいました。この地に残されたのは多聞寺本体と僧坊の西方院だけです。

初夏のカキツバタが知られる小さな寺院というイメージがある多聞寺ですが、かつてはそんなに大きな寺院だったとは、ちょっと意外な気がしてしまいますね。
次回はさらに多聞寺まで歩いてみましょう。

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