せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

垂水新田を辿って(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、垂水の五色山・霞ヶ丘を歩いてみたいと思います。

霞ヶ丘へ

五色塚古墳から山手の霞ヶ丘へ向かうことにしました。
古墳からはなだらかな坂道が続いています。
狭い道路ですが、ここは山陽バス1系統の走るバス道でもあります。

市場前?

霞ヶ丘5丁目
のバス停にたどり着きました。
バス停には「市場前」というカッコ書きがありますが、市場とは一体…?
バス停の南側の商店が集まっている区画のことを指しているのかもしれませんが、詳しくはわかりません。

現在は住宅地が広がる五色山・霞ヶ丘地区ですが、かつては田園地帯でした。特にイチゴ栽培は広く知られていたらしく、戦前は山陽電車で多くの人がイチゴ狩りに訪れていたとか。現在の神戸電鉄の二郎のような景色が垂水にもあったとは、ちょっと意外ですね。

松平日向守信之公供養墓

バス停の近くに石碑がありました。こちらは江戸時代前期の万治2(1659)年から延宝7(1679)年まで明石藩主を務めた松平信之の供養墓です。信之は明石藩から大和の郡山藩、下総の古河藩に転封され、古河で亡くなりましたが、信之を慕う住民が縁のあるこの地に供養墓を建てたそうです。

松平信之は父・忠国が進めてきた藩内の新田開発を引き継いで藩内各所で新田を拓いてきました。この五色山・霞ヶ丘地区もその一つで、古い地図には「垂水新田」という名前が見られます。川から離れた台地上でどうやって新田を拓いたのか疑問に思うところですが、古地図には大きなため池がいくつも記されていて、このため池で水利を確保していたようです。といっても、稲作を行なうほどの水は確保することはできなかったようで、小川が流れている山陽電車霞ヶ丘駅付近を除いて一帯では畑作が行われていました。この畑作地帯が後にイチゴ畑となり、なだらかに整えられた畑はやがて住宅地になっていきました。

供養墓の松

バス道から供養墓を眺めてみました。
初冬の青空に向かって立派な松の木がそびえていました。大きく変わったこの地域を松平信之はどのように見ているのでしょうか。

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