淀川を歩く(前編)


夏の盛りの中に秋の気配を感じるこのごろ、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急十三駅

今回降り立ったのは阪急電車の十三駅
阪急神戸線と宝塚線、京都線が分かれるターミナル駅です。
電車がひっきりなしに行き交う駅構内に対して、駅の周辺はどこかのんびりとした下町の雰囲気です。

十三大橋

駅から少し歩くと、淀川に架かる十三大橋のたもとに着きました。
橋の上に広がる青空の先には大阪のビル群を望むことができます。

十三渡し跡

十三大橋の近くには「十三渡し跡」なる石碑がありました。かつて淀川には橋がなく、渡し船が運航されていました。といっても、過去からなかったわけではなく、中世にはこの付近に橋があったという記述もあるようです。後に再び(?)橋が架けられたのは明治11(1878)のことでした。

渡し跡を眺める

十三渡しがあったという河原を眺めてみましたが、小さなグラウンドが広がるばかりで全く何の痕跡もありません。渡し船の跡なので時代の変化とともに消えていったのか…と思うところですが、実は、この付近は渡し船どころではなく、川の流れから完全に当時と違うものになっています。次回はかつての淀川の流れを辿ってみたいと思います。

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塩屋を訪ねて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回、前回に続いて塩屋を歩いてみたいと思います。

坂の町

前回、毘沙門堂を訪ねて想像以上のハードさにヘロヘロになってしまったのですが、そんな私にも塩屋の町は容赦することはありません。駅からちょっと山手のほうへ向かってみるとこの坂道…。塩屋は坂の町です。

町を見下ろす異人館

坂の上にあったのは立派な異人館でした。神戸の異人館といえば北野地区が全国的にも知られていますが、ここ塩屋地区も知られざる異人館街です。明治の末頃から昭和初期にかけて、多くの洋館が塩屋から滝の茶屋にかけての一帯に建設されました。こちらの異人館はその一つですが、非公開であまり情報はありません。

旧ジョネス邸

山陽電車とJRを潜ったところにあったのが旧ジョネス邸です。大正8(1919)年の建築で、大阪湾を望むなかなか趣ある異人館だったのですが、マンションの建設のために取り壊されてしまいました。写真は取り壊される前に撮影したものです。

旧グッゲンハイム邸

塩屋地区で一番目立つのがこちらの旧グッゲンハイム邸でしょうか。山陽電車の山側に静かに佇む異人館で、名前からわかるようにドイツ人貿易商が建てたもので明治42(1909)年の建築とのこと。現在は塩屋在住の個人が所有・保存しているようで、月に一回の一般公開がありますが、訪問時は一般公開日ではなく、何だかイベントを開催しているようだったので、門からこっそりと覗くのみ…。機会があれば、訪れたいものです。

塩屋地区の異人館の始まりは山陽電車の滝の茶屋駅にほど近いところにイギリス人貿易商のアーネスト・ウイリアムス・ジェームスなる人物が邸宅を設け、周辺が「ジェームス山」と呼ばれるようになったため…という説もあるようですが、このジェームス邸が造られたのが昭和9(1934)年とこの辺りの異人館では比較的新しい方で、それがきっかけなのか何なのかよくわかりません。グッゲンハイム邸の海を望む立地を考えると、貿易港の神戸から程近く景観もよい場所だった塩屋地区に外国人貿易商が別荘を建てだしたのがきっかけなのでしょうか。

グッゲンハイム邸と山陽電車

グッゲンハイム邸の前には山陽電車の踏切があり、ちょうど電車が通りかかりました。時間帯が悪く、逆光になってしまったのですが、異人館と山陽電車とのショットは塩屋地区を象徴するような景色に思えますね。

小粒ながら飽きさせない魅力がたくさんの塩屋地区を満喫し、山陽電車の車中の人となることにしました。

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塩屋を訪ねて(中編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、塩屋を歩いてみたいと思います。

毘沙門の道標をたどって

前回発見した「毘沙門」 という道標をたどって塩屋地区を歩いていくことにします。

立ちはだかる急坂

「右 毘沙門」
とそっけなく書かれた先にはくじけそうな急坂が立ちはだかっていました。薄々感じていましたが、目指す毘沙門は相当な山の中にあるようです。

山王神社

急坂を登りつめて木立の中に入ると小さな神社がありました。境内は最近話題の位置情報とARを利用したスマートフォンゲームの対戦場となっているようで、子供たちが何やら盛り上がっていました。

源平塚へ

山王神社の境内に「源平塚」への案内があったので寄り道してみました。しかし…、案内の道標が指し示す先の道は夏草に覆われ、おびただしい数のアブラゼミの大群に襲われることになり、心が挫けそうに…。結局、手前の亀光大明神なる祠までで断念してしまいました。これは草や虫の少ない冬季に訪れるのがよさそうですね。

源平の合戦についてはこのブログでも何度も触れていますが、平氏が滅亡することになる治承・寿永の乱ではこの近辺が戦乱の地となりました。当時都の置かれていた福原の西側を守る要所となったこの地では多くの戦死者が出て、さらに、寿永3(1184)年の一の谷の合戦では源氏の奇襲を受けた平氏は摂津を離れ、屋島、壇ノ浦へと逃れていくことになります。この源平塚は塩屋地区の住民が戦死者を供養するために設けたものとのこと。

「毘沙門」へ

人気のない山道を登りつめると、小さなお堂にたどり着きました。
こちらが道標の示す「毘沙門」のようです。案内によるとこの毘沙門堂は塩屋地区の北を守り、豊漁と繁栄を祈ってまつられたとのこと。決して大きなお堂ではありませんが、村の中にあったたくさんの道標を考えると、古くから塩屋地区の住民に大切に信仰されてきたのでしょう。

須磨浦山上を望む

ふと見上げると、須磨浦山上遊園が見えました。塩屋地区を歩いていたつもりが気が付けばずいぶんと山奥へ来てしまったようです。
次回は塩屋地区の街中を改めて歩いてみたいと思います。

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塩屋を訪ねて(前編)


猛暑の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽塩屋駅

今回のスタートは山陽塩屋駅
何だか既に訪れていそうな気がしたのですが、よくよく確認すると今回が初めての紹介です。

塩屋の路地

塩屋地区の特徴がこの路地です。海側には山陽電車だけでなくJRの駅もあり、マンションが建ち並ぶ景色が広がるのですが、山陽電車の高架をくぐると狭い路地に商店がびっしりと軒を連ねる別世界のような景色が広がっています。

塩屋谷川

路地を抜けると川のほとりに出ました。この川は塩屋谷川。須磨の奥須磨公園付近から下畑地区や塩屋地区を経て大阪湾へと注ぐ川です。

神戸市内でも独特の景観を持つ塩屋はかつて海岸で製塩が行われていたことを地名の由来としているとされています。ただし、製塩と言っても大塩などの播磨灘沿岸で行われていたような塩田を使った大規模なものではなく、海岸で海水を煮詰めて塩を作る原始的な製塩だったのでしょうが。近代に入り、山陽本線や山陽電車の前身の兵庫電気軌道が塩屋谷川の河口付近に駅を開設し、また、海岸の埋め立ても行われて大きく景色が変わってしまいましたが、この狭い路地の景色は漁村の趣をそのまま残しているように感じます。

毘沙門の道標

さて、街中を散策していて気が付くのが「毘沙門」と書かれた道標です。辻々に同じような道標があり、ひっそりと存在を主張しています。毘沙門といえば垂水の多聞寺かと思うのですが、どうも道標が示すのは別の方向のよう…。
次回も塩屋地区を歩いて、毘沙門について迫ってみたいと思います。

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西宮の戦争・鳴尾飛行場跡を歩いて(後編)


こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、鳴尾飛行場跡を歩いてみたいと思います。

枝川町の街並み

鳴尾飛行場のあった枝川町は真新しい住宅が建ち並ぶ街並みが続いています。この辺りは飛行場になる前には競馬場が広がっていました。

この地にあった鳴尾競馬場が開設されたのは1907(明治40) 年のこと。当時の古地図を見て驚くのが、鳴尾川の両岸に競馬場が向かい合って存在することです。東岸にあったのが「鳴尾速歩競馬場」、西岸にあったのが「鳴尾西浜競馬場」でした。二つの競馬場が向かい合っていた時期は長くは続かず、3年後には政府の命令で鳴尾西浜競馬場に統合され、「鳴尾競馬場」となりました。この競馬場は後に「阪神競馬場」となりますが、それも長くは続かず、昭和18(1943)年に軍に接収されて海軍の鳴尾飛行場となりました。

武庫川女子大学附属中学校・高等学校芸術館

住宅地の中を歩いていると、武庫川女子大学の敷地に突き当たりました。敷地の周囲を歩いていて発見したのが武庫川女子大学附属中学校・高等学校の芸術館と呼ばれる建物です。敷地外から見えるこの建物は地味な存在ですが、もともとは鳴尾競馬場の大スタンドの本館として建てられたものでした。後にはなんと鳴尾飛行場の管制塔となり、戦後には武庫川女子大学附属中学校・高等学校の校舎として使われるようになりました。競馬場の本館として建てられた当時、まさか、この建物が二度も全く違う用途に使われることになろうとは、想像もつかなかったことでしょう。ただし、ほとんど跡形もない鳴尾飛行場の痕跡の中で最大の遺構と言えましょうか。場所が場所なので、不審者に思われないよう、ささっと写真を撮影して通り過ぎることに。

阪神電車武庫川団地前駅

鳴尾川を渡り、対岸の阪神電車武庫川団地前駅まで歩いてみました。戦前、この南側には先述の鳴尾速歩競馬場がありました。鳴尾競馬場に統合後、この地は工業地帯となり、川西航空機(後の新明和工業)の工場が設けられました。余談ですが、この川西航空機の創業者の川西清兵衛は山陽電車の前身の兵庫電気軌道の創業者でもあります。鳴尾飛行場はこの川西航空機の試験飛行場を兼ねて設けられたものでした。

東鳴尾付近

武庫川団地前から電車に乗って二つ目の東鳴尾で降りてみました。武庫川駅へと伸びる線路を眺めてみると、何だかもう一本線路が敷けそうな空間があります。阪神電車武庫川線が開業したのは昭和18(1943) 年のこと。開業時期からわかるように、軍需輸送のために設けられた路線で、将来複線化するための用地を確保していました。ただし、開業して程ない昭和20(1945)年5月の空襲で工員や貨物の輸送先である川西航空機の工場が壊滅的な被害を受け、鉄道も大きな被害を受けたために本来の役割は発揮できなかったとのこと。

阪神武庫川駅

阪神武庫川駅の通路から眺めると、武庫川線の線路はさらに武庫川に沿って北へ延びていました。現在の武庫川線は武庫川駅を発着していますが、戦時中はこの先、国鉄西ノ宮駅(現在のJR西宮駅)まで貨物線が延びていて、川西航空機への貨物輸送の役割も担っていました。戦後、貨物線は廃止となりましたが、現在でもこうして薄らと痕跡が残っています。

閑静な住宅地が広がる現在からはあまり想像ができませんが、西宮にこうした歴史があったのだということを忘れないようにしないといけないなと思いつつ、帰途に就くことにしました。

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