せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

北摂の城下町・三田を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前々回・前回に続いて北摂の城下町の三田を歩いてみたいと思います。

三田御池

金心寺址から歩いて行くと、大きな池の畔に出ました。
こちらは三田御池です。
農業用のため池かと思いきや、もともとこの地にあった池とのこと。

三田城跡

三田御池を回りこむと小学校の校門の前に出ました。
校門の横には城壁のような装飾と「史跡 三田城跡」の文字が。三田のことを城下町城下町と言ってきましたが、この学校の敷地が三田の城跡なのです。

お堀?

小学校と向かいあうようにある高校との間には草が生い茂る掘割がありました。こちらはお堀の跡と言われています。

この三田に城が築かれたのは南北朝時代のこと。当初は赤松氏の一族である有馬氏が城を治めました。のちに荒木村重の一族が治めるようになるなど、戦国時代から江戸時代初めにかけて城主がコロコロ変わることになりましたが、最終的には有馬氏の支配に戻ることになります。しかし、それも長くは続かず、寛永10(1633)年に志摩国鳥羽より移ってきた九鬼久隆がこの三田を治めるようになりました。この九鬼久隆は水軍で知られる九鬼氏の子孫で、長らく志摩に勢力を持っていました。しかし、父の守隆が久隆に家督を引き継ぐ際、兄の隆季が猛反発し家督争いに発展。そのせいか幕府により久隆は三田、隆季は丹波国綾部に移されてしまいました。海を失った九鬼氏ですが、三田に移ってからも三田御池で水軍の訓練を行っていたそうです。

旧九鬼家住宅資料館

高台にある三田城跡から坂道を下っていくと、趣のある建物が見えてきました。
こちらは旧九鬼家住宅資料館で、三田藩で家老職を代々務めた九鬼家の住宅です。明治時代の初めに建てられた擬洋風建築と呼ばれる和洋折衷の建築で、確かに、和風の一階とテラスや鎧戸を備えた洋風の二階とが合体した不思議な建物です。

藩校造士館跡

旧九鬼家住宅資料館の傍にはこんな説明板がありました。こちらは三田藩の藩校「造士館」の跡とされています。水軍を失ったからでしょうか、九鬼氏は藩士の育成に力を注ぐようになります。明治に入り、近代の時代になると三田藩からは白洲次郎の祖父の儒学者で家老を務めた白洲退蔵や神戸で小寺洋行を設立した小寺泰次郎などを輩出、明治初めの頃の九鬼家の当主・隆義も神戸で商社「志摩三商会」を設立するなど、近代都市となった神戸の発展に貢献することになります。神戸の発展には海を失った水軍の力があった…とは言い過ぎでしょうか。

武庫川を望む

再び武庫川に出てみました。
古代寺院の門前町として生まれ、中世には城下町となり、幕末から明治には神戸の発展をひそかに支えた三田。神戸・大阪のベッドタウンと言いきるにはもったいないくらいの魅力がありますね。そろそろ雨の季節ですが、ゆったりと北摂を歩いてみてはいかがでしょか。

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