せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

旧居留地を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて旧居留地を歩いてみたいと思います。

メリケン波止場

旧居留地から海辺に向かうと「メリケン波止場」 と書かれた門柱のようなものがありました。この南側はメリケンパーク。門柱に目を止める人は少ないようですが、この先がメリケンパークの名称の由来になっているメリケン波止場こと「兵庫港第3波止場」です。メリケンという名称は波止場の付け根にアメリカ領事館があったことに由来しているとのこと。

海岸通の景色

メリケン波止場から振り返って海岸通の景色を眺めてみると、レトロビルが建ち並び異国情緒あふれる雰囲気です。商船三井ビルの隣の海岸ビルは阪神・淡路大震災で全壊し、現在は高層ビルの低層階に外観が復元されていますが、この景色に違和感なく溶け込んでいるように見えます。

神戸外国人居留地は明治32(1899)年に返還されました。しかし、その後も外国の商館などが残ることになりますが、第一次世界大戦を境に急速に衰退しました。その代わりに居留地の周辺で外国人相手の取引を行っていた日本の商社や銀行などが居留地内にもオフィスを構えるようになり、旧居留地は神戸の都心のビジネス街として発展するようになります。

旧居留地十五番館

再び旧居留地の中を歩いて行くと、「旧居留地十五番館」なる建物を見つけました。こちらはアメリカ領事館として建てられた洋館で、旧居留地では唯一の洋館建築です。現在はレストランとなっています。返還後も旧居留地には永代借地権をもつ外国人が数を減らしながらも居住していて、権利の上で居留地が消滅したのはなんと戦時中の昭和7(1942)であるといわれています。

神戸市立博物館

旧居留地を歩いて行き、神戸市立博物館にたどり着きました。こちらもレトロビルで、昭和10(1935)年に横浜正金銀行の神戸支店ビルとして建てられたものです。返還後、ビジネス街として発展した旧居留地ですが、神戸大空襲による被害や戦後の東京への集中による神戸の相対的な地位低下により衰退していきます。ただし、昭和の終わり頃にはこうしたレトロビルの景観が評価されるようになり、現在は神戸の代表的な観光スポットとなっています。この大型連休中も多くの観光客が足を運ぶことでしょう。神戸に住んでいるとなかなかこうしたスポットに足を運ぶことは少ないのですが、たまには神戸の街の歴史を辿ってみてもいいかもしれません。

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旧居留地を歩く(前編)

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初夏の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

生田ロード

今回のスタートは生田ロード。
前回までで見てきたように、生田ロードと交差するこの道路は旧西国街道で、現在は神戸市道の「花時計線」と呼ばれています。

奇妙な町割り

生田ロードの東側を見て気付くのは奇妙な町割りです。旧西国街道に沿って東西に細長い建物が建ち並んでいます。これは一体…?と思いますが、古地図を見てみると、この付近には大きな役所の建物が並んでいたようで、その区画がそのまま現在の町割りになっているようです。ちなみに、この付近には関所のようなものがあったようです。

神戸朝日ビル

生田ロードのすぐそばにあるのが「神戸朝日ビル」です。映画館などが入る地上25階建の高層ビルですが、低層階は何だかレトロな雰囲気の外壁です。こちらはかつてこの地にあった神戸証券取引所の外観を復元したものです。旧西国街道の南側は旧居留地と呼ばれ、こうしたレトロなビルが多数存在しています。

前回も歩いてきたように、神戸に外国人居留地が設けられたのは幕末のこと。開港地として選ばれた兵庫に隣接して外国人居留地が設けられました。北は西国街道、東は生田川(現在のフラワーロード)、西は鯉川(現在の鯉川筋) に造成されました。ただし、居留地の造成工事は遅れ、江戸幕府から事業を引き継いだ明治政府は暫定措置として周辺部の西は宇治川、北は山麓までを雑居地として外国人の居住を認めることになりました。このことが神戸の独特な風景を生み出したとも言われています。

商船三井ビルディング

居留地内を歩いて南側の海岸通まで出ました。
目立つのは「商船三井ビルディング」です。大正11(1922)年に大阪商船(現在の商船三井)が神戸支店のビルとして建てられたもので、旧居留地のレトロビルが震災や建て替えで失われた中でかつての姿を残す数少ない建物です。神戸外国人居留地は明治時代に日本に返還されてから多くの銀行や商社が立地し、競うようにこうしたビルを建てていきました。次回はもう少し旧居留地を歩いてみたいと思います。

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旧西国街道と神戸(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて神戸の都心で旧西国街道を辿ってみたいと思います。

生田ロード

生田神社門前で垂直に曲がった旧西国街道は生田ロードとなって南下して行きます。交差するのは三宮センター街。賑やかな繁華街の景色に目がくらみそうになります。

花時計線

生田ロードを南下した旧西国街道はさらに垂直に曲がって市道花時計線となり西へと向かいます。気になるのは道路の奇妙なカーブ。しかも、この花時計線を境に南北の通りも微妙にカーブしています。神戸の方にはもはや説明は不要かもしれませんが、この南側はかつての外国人居留地。この旧居留地の北側が土地の傾斜に沿った町割り…いわば、山を基準軸とした町ならば、旧居留地は海を基準軸とした町割りでした。この通の微妙なカーブは「山の町」「海の町」の接点であることを示していると言えましょうか。

神戸に外国人居留地が開かれたのは幕末の慶応3(1867)年のこと。日米修好通商条約を始めとして、英仏露蘭と次々に結んだ条約(安政の五カ国条約)に基づいて古くからの港町でこれらの条約によって開港地に選ばれた兵庫に隣接する神戸に設けられたものでした。

三宮神社

花時計線を歩いて行くと、ビルの谷間に佇む神社にたどり着きました。こちらは三宮神社。バス停の名称にもなっていて、「三宮神社」行きのバスを見かける機会も多いかと思いますが、実際の神社は小ぢんまりとしています。 この三宮神社の前で西国街道の長い歴史の中でも大事件が起こったのは居留地が設けられた翌年の慶応4(1868)年。西国街道を通行中の備前藩の隊列をフランス人水兵が横切りました。無礼な行為に怒った備前藩士が水兵に斬りかかり軽傷を負わせたことで銃撃戦に発展、双方に負傷者が発生する外交事件となりました。最終的にフランス人水兵に斬りかかった備前藩士が切腹することで事態をおさめることになりましたが、この事件は後に「神戸事件」と呼ばれるようになり明治新政府にとって最初の外交事件として歴史に残ることになりました。そんな歴史の舞台となったことが信じられないくらい、神社は静かに佇んでいました。

元町商店街

旧西国街道は元町通交差点へ出ました。この先、街道はさらに西へと向かっていきますが、旧街道と神戸の町を巡る旅はここで行ったん終えることにしましょう。

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旧西国街道と神戸(前編)

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すっかり春の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

神戸三宮の街角

今回のスタートは神戸の中心・三宮の街角から。
三宮駅前の賑やかな繁華街の街中に佇んでいるのは「旧西国街道」の石碑と案内板です。
今回はこの石碑から神戸の近世を歩いてみたいと思います。

旧西国街道の道のり

ここからの旧西国街道ですが、北へ鋭角に曲がり三宮の中心を避けるように北側へ逸れていきます。JRと阪急のガードを潜ってさらに鋭角に曲がった先のJR三ノ宮駅前の不自然な街割が街道の名残です。ここには段差もあり某公共放送の某番組的にはむむっ!なポイントですね。

夕暮れの神戸阪急ビル東館

旧街道を歩いていくと、阪急神戸三宮駅前に出ました。
交差点に面して夕日を浴びて佇むのは神戸阪急ビル東館。このビルも近々建て替えが予定されているそうで、現在の景色もいずれは歴史となっていくことでしょう。

「山陽道」とも呼ばれる旧西国街道はその名の通り、京都と西国、すなわち山陽・九州方面をつなぐ街道で古代には都と九州の太宰府を結ぶ日本でも有数の幹線道路として整備されてきました。江戸時代には、江戸を中心とした五街道が重点的に整備され、西国街道は脇街道に位置付けられてしまいましたが、近代に入ってから整備された国道では西国街道に当たる区間は国道2号線として東海道に次ぐ番号をつけられることになりました。今でも日本の基幹となる道路のルーツです。

下山手通

三宮駅前を経た旧西国街道は下山手通となり繁華街の中を通っていきます。アーチの目立つ「東門街」こと生田東門商店街は歓楽街として知られていますが、その歴史は明治に遡るとされ、意外と歴史のあるスポットです。
旧西国街道は下山手通を外れて生田ロードを南へ下っていきます。
この先にあるのは神戸の街と西国街道等の関係を印象付けるスポットですが、ひとまず次回に続くことにしましょう。

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須磨浦を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回から須磨浦を歩いているのですが、ぼんやりしている間に桜の季節も終わりが近づいてきている頃…。もはや焦っても仕方がありませんので、マイペースで進めることにしましょう。

夜桜ライトアップ

先週まで行われていた「敦盛桜」の夜桜ライトアップの様子です。美しかったのですが、こちらはまた来年に。

大阪湾を望む

前回の続き。つづら折りの階段を上っていくと、大阪湾を見下ろすことができました。ちょうど梅田行きの特急が通過して行きます。

安徳帝内裏跡伝説地

階段を上った先はごく普通の住宅地でした。山が海に迫る印象が強い須磨浦ですが、電車の車窓からは見えにくい山の中腹は意外となだらかになっていて、住宅地が広がっています。その真ん中にあったのがこちらの祠。神社かというところですが、案内によると、こちらは安徳帝内裏跡伝説地とのこと。一の谷の戦いの際に安徳天皇の内裏が一時的に置かれた場所と言われています。ただし、史実と辻褄が合わないようで、あくまで「伝説地」とのこと。後にこの場所には安徳天皇を祀る安徳宮が建立されました。

敦盛塚

安徳帝内裏跡伝説地から一旦須磨浦公園に戻って訪ねたのが敦盛塚。賑やかな須磨浦公園の界隈の中でここだけどこかひっそりと静かな空気が流れていました。
かつて山陽電車にはこの塚にちなんだ「敦盛塚駅」がありましたが、古地図を見てみるとこの塚からはかなり東側にあったようです。

平敦盛についてはもはや説明は不要かもしれませんが、平清盛の弟の息子、つまり、清盛の甥にあたり、一の谷の合戦の際に源氏方の武将・熊谷直実に討たれたという『平家物語』に書かれたエピソードから源平合戦の悲劇のヒーローとして知られています。敦盛の首は須磨寺にある敦盛塚に納められたと言われ、こちらの敦盛塚は胴が納められた胴塚とされています。

夜桜と山陽電車

再び夜桜の写真から。
桜の季節は間もなく終わりですが、これからは気候がよく新緑を楽しむこともできる季節。須磨浦で歴史に思いをはせて歩いてみるのもいいかもしれません。

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