せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

淡路鉄道を訪ねて(前編)

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早春の頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

洲本城址

今回訪れたのは淡路島は洲本
何だか遠い所のような気がしてしまいますが、山陽電車の舞子公園駅に隣接する高速舞子バスストップから高速バスですぐ。意外と近いところにあります。
市街地のお堀の端から眺めるのは以前訪れた三熊山の洲本城です。

洲本市立淡路文化史料館

今回はなかなかつらい目(?)にあった洲本城に上ることなく、山の麓にある洲本市立淡路文化史料館を訪ねました。この資料館のある場所は三熊山の上にある山城「上の城」に対して「下の城」と呼ばれた城郭の跡地にあり、そのためか淡路島の名産の淡路瓦を使った和風の建築になっています。

廃線から半世紀 淡路鉄道展

この史料館では現在「廃線から半世紀 淡路鉄道展」と題してかつて淡路島を走っていた淡路鉄道(後の淡路交通)の資料を展示する特別展が開催中です。

淡路鉄道はかつて洲本と鳴門海峡に面する福良を結んでいて、大正11(1922)年の洲本口(後の宇山)~市村間の開業に始まり、大正14(1925)年に全線開通を果たした鉄道です。開業当初は蒸気機関車による運行でしたが、戦後の昭和23(1948)年には電化し、戦後では唯一の離島(北海道・本州・四国・九州を除く島)の鉄道として親しまれてきました。特別展では、淡路鉄道の現役当時の映像や切符や時刻表などの資料が展示されていて、何だか、今でも走っているのではないかと思えるくらい生き生きした鉄道の姿を見ることができました。

洲本駅跡

高速バスや一般路線バスの発着する洲本高速バスセンターの斜向かいに淡路交通の本社に隣接した営業所がありました。こちらがかつての洲本駅の跡です。鉄道廃止後、駅跡は洲本バスターミナルとなりましたが、それも洲本高速バスセンターの完成で機能移転し、現在はバスの営業所となっています。かつての痕跡はほぼありませんが、ホームのような上屋沿いにバスが並ぶ光景はどこか鉄道駅を思わせるものがありますね。

島の電車として親しまれ、廃止から半世紀になる淡路鉄道。次回はもう少し淡路鉄道の痕跡を訪ねてみたいと思います。

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曾根崎を歩く(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大阪の曽根崎を歩いてみたいと思います。

お初天神参道

曽根崎警察署の裏手に続くのは「曽根崎お初天神通り」なる商店街です。商店よりは飲食店が多いような印象で、北側の阪急東通りと一続きの繁華街のようです。この商店街の両側が現在の地名で曽根崎に相当するエリアです。

曽根崎公西会市場

飲食店が建ち並ぶ通りから横道に入ると、曽根崎公西会市場なる市場がありました。板宿の市場のような雰囲気ですが、営業している店舗は少ないようで、ひっそりとしていました。

露天神社

商店街を通り抜けてたどり着いたのが露天神社です。 大阪の市街地に飲み込まれそうな神社ですが、境内は意外と広く、雨にもかかわらず多くの参拝客が訪れていました。
露天神社の創建は分かっていないそうですが、平安時代頃にはこの場所にあったとされ、非常に古い歴史があったといわれています。変わったこの神社の名前は平安時代に菅原道真が太宰府に流される際に立ち寄った時に呼んだ歌「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に由来するとのこと。

露天神社の境内

この神社の名前を有名にしたのは近松門左衛門が実際に事件をもとに書いた浄瑠璃『曾根崎心中』です。話の詳細は省きますが、大阪の醤油屋の息子の平野屋徳兵衛が思いを寄せた遊女・お初との心中の場所に選んだのがここ露天神社の森でした。浄瑠璃が大ヒットすると大坂の町外れにあったこの神社にも多くの参拝客が訪れるようになり、いつしか、本来の露天神社という名前より「お初天神」という通称の方が有名になってしまいました。現代のアニメの聖地巡礼などの先駆けともいえましょうか。

商店街の幕

先ほど歩いてきた商店街のアーケードにはこんな幕が下がっていました。そういえば気になるのが先ほどこの商店街の位置です。幕にもあるようにこの商店街が露天神社の参道に当たりますが、この参道を実際に歩いてみると神社に裏から入ることになります。一方で、神社の正面に当たる南側には参道らしき街並みはありません。これは一体…? 古い地図にその答えがありました。かつてこの曽根崎の地は中洲になっていて、時代がさがって岸辺と地続きになっても南側は曽根崎川という川が流れていました。地形から推測すると、創建当時の露天神社への参拝は船で川から訪れるのが一般的だったのが、川が埋め立てられる一方で、北側に鉄道が開業し大阪駅が出来るなど周辺環境の変化とともに北側の商店街がメインの参道に切り替わっていったのでしょうか。

大阪の市街地にあり、簡単に行けそうでなかなか行かない曽根崎。
間もなく連続ドラマも最終回ですし、この機会にぶらりと歩いてみませんか。

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曾根崎を歩く(前編)

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少しずつ春を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

阪急梅田駅

今回のスタートは阪急電車の梅田駅
言うまでもなく、大阪でも有数の大ターミナル駅です。

地蔵横丁

そんな阪急梅田駅の一階。
これまた高速バスがひっきりなしに行き交う大阪梅田(阪急三番街)バスターミナルの傍に「地蔵横丁」なる表示がありました。カタカナの名前が多い都心の一角で何だかここだけちょっと時代がかった命名です。

北向地蔵

飲食店が立ち並ぶ横丁を歩いていくと、 行き止まりにあったのはなんと本当にお地蔵さんです。こちらは北向地蔵。傍らの案内によると、明治26(1893)年、この地にあった畑から掘り出されたお地蔵さんを当時の地主がお堂を建てて祭ったのが始まりとのこと。この時、お堂を北向きに建てたというのが名前の由来でしょうか。阪急電鉄の前身の箕面有馬電気軌道が梅田に乗り入れたのは明治43(1910)年のことですから、このお地蔵さんのほうが20年近く先輩ということになりますね。昭和44(1969)年の梅田駅拡張と阪急三番街建設の際に今の場所にお堂を移したとのこと。都心の商業施設の中にお堂があるのは何だか不思議な景色ですが、ある意味で現代の日本らしい景色なのかもしれません。

曽根崎警察

阪急梅田駅から地下街でJRの高架橋と阪急百貨店の下を通り抜け、東梅田駅付近で地上に出ました。地上にそびえたつのは大阪府警の曽根崎警察署。阪急梅田駅のくだりが長くなってしまいましたが、今回の目的地はここ曽根崎です。曽根崎といえば、近松門左衛門の『曾根崎心中』が有名な地。大阪の都心でありながらなかなか歩くことの少ない地ではないでしょうか。また近松かというところかもしれませんが、少々お付き合いください。次回は曽根崎を歩いてみたいと思います。

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近松門左衛門を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、尼崎に江戸時代の人形浄瑠璃作家・近松門左衛門を訪ねて歩いてみたいと思います。

近松門左衛門像

記念館の前には近松の像が建っていました。
教科書などに掲載されている絵と比べると、どこか温和な表情のように見えます。

広済寺

近松公園に隣接して佇んでいたのが広済寺です。

広済寺は平安時代の武士の源満仲(多田満仲)が妙見菩薩をまつるために天徳元(957)年に創建されたという非常に歴史のある寺院です。妙見菩薩をまつる霊場といえば、関西では大阪の能勢妙見が知られていますが、歴史としては実は広済寺の妙見宮のほうが古いとされています。ところで、この妙見菩薩とは何者かといえば…、簡単に言えば中国の道教で神格化されていた北極星が仏教と結びついた神ですが、日本に伝わってからはさまざまな宗教と結びついていったようでなかなかマニアックで複雑なようです。

近松門左衛門墓所

広済寺の境内には近松門左衛門の墓所がありました。近松の生まれは越前(現在の福井県)とされ、浄瑠璃作家として活躍したのも京都や大阪であるにもかかわらず、墓所が尼崎にあるのは一体…?

古い歴史のある広済寺ですが、南北朝時代の戦乱もあり中世には荒廃していたそうです。その広済寺を再興したのが日昌上人なる人物で、近松と日昌上人が知人であったためか、近松は広済寺再興の本願人となりました。このとき境内には「近松部屋」なる建物が設けられ、近松はこの部屋でも執筆を行なったそうですが、現存していません。再興後、大阪から程よい距離にあり、有馬温泉への街道筋にあった広済寺は多くの参拝客で賑わうことになりました。この頃の近松は代表作の「曾根崎心中」がヒットし、人気浄瑠璃作家となっていましたが、これら心中物がブームとなったために実際の心中事件が多発することになったそうで、享保8(1723)年に江戸幕府は心中物の上演を禁止するとともに心中事件に対して厳しい処置をするようになりました。「曾根崎心中」が再演されるようになったのはなんと、戦後になってからでした。近松は幕府の禁止令の翌年の享保9(1724)年に亡くなり、縁のあるここ広済寺に墓所が設けられました(諸説あるようです)。

須佐男神社

広済寺に隣接して神社がありました。
こちらは須佐男神社です。妙見宮の参拝客で賑わった広済寺ですが、明治に入り神仏分離令によって妙見宮はこの須佐男神社として分離させられてしまいました。
その後、有馬道の妙見宮として栄えた広済寺は再び衰退していきますが、戦後、市街化とともに今度は地域の寺院として親しまれるようになっていきました。

近松門左衛門を訪ねて歩いてみると、今まで見てきた尼崎とは違う尼崎を発見したような気がします。近松記念館の訪問を兼ねて、再訪してみてもいいかもしれません。

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近松門左衛門を訪ねて(前編)

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肌寒い中に春を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

1月からの大河ドラマ「真田丸」の評判がいいようですが、個人的には木曜日にやっている江戸時代の人形浄瑠璃作家・近松門左衛門を取り上げた時代劇のほうが気に入っている…ということで、今回は尼崎に近松門左衛門を訪ねて歩いてみました。

尼崎駅

スタートはJR尼崎駅
駅前から尼崎市交通局のバスに乗ることにしました。
尼崎市交通局は今春より阪神バスに移譲されることが予定されているので、この光景も間もなく歴史となりそうです。

近松公園バス停

10分ほどバスに揺られて到着したのがJR塚口駅にほど近い近松公園バス停

有馬道

車の通りの多い通りから一本西側の筋に入るとカラー舗装された道路が現れました。この道は「有馬道」で、その名の通り、大阪から有馬温泉への街道です。神戸の方なら「有馬道」って兵庫区にもあるのでは…? と思ってしまうところですが、こうした有馬温泉への街道は兵庫区を通る「天王谷越え」や現在はハイキングコースになっている六甲越えの「魚屋道」など複数あり、ここを経由する「生瀬越え」もその一つです。豊臣秀吉も有馬へ大阪から有馬へ行く際はこの道を使ったとのこと。近代になって鉄道が開業しても、現在の神戸電鉄が開業するまではこの街道に沿う福知山線で三田を経由して有馬へ向かうルートが真っ先に生まれましたので、この道が大阪から有馬へのメインルートとも言えましょうか。

近松公園

街道沿いを歩いていくと近松公園に到着しました。 その名の通り、近松門左衛門を記念して作られた日本庭園です。園内は二月の寒さにもかかわらずお年寄りの方が驚くほど多く集まっていました。

近松門左衛門は江戸時代前期に活躍した人形浄瑠璃作家で、義太夫節で知られる竹本義太夫竹本座に所属していました。この竹本座で東大寺大仏殿造営の勧進集めを当て込んで演じられた『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりと言われているとのことです。といっても、元も子もない話ですが、人形浄瑠璃には関する知識はそこまでないので、何が違うのかはよくわからないのですが…。その後、元禄16(1703)年には『曾根崎心中』を発表し、元禄文化を代表する浄瑠璃作家として知られるようになりました。

近松記念館

園内には近松門左衛門の遺品などを展示する近松記念館がありますが、何ということか、訪れたときは休館日でした。ぶらり街歩きらしい展開と言ったらそうですが、ちょっと残念。まあ、また訪れよということでしょうか。

記念館は見られませんでしたが、この周辺には近松門左衛門ゆかりの史跡がまだまだあります。もう少し歩いてみることにしましょう。

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