せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

平清盛の夢のあと・兵庫津を歩いて(中編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に続いて、大輪田泊~兵庫津を歩いてみたいと思います。

能福寺

新川沿いから少し戻るように歩いて訪れたのが能福寺。 創建は平安時代初めの延暦24(805)と言われ、長い歴史のある寺院です。清盛ゆかりの寺としても知られ、平氏の後ろ盾もあって平安時代の終わりには大寺院として栄えることになります。大河ドラマ「平清盛」放送時は茶店が設けられるなどかなりの賑わいを見せていたのですが、今はひっそりとしていました。

兵庫大仏

この寺で有名なのが日本三大仏の一つとして数えられる「兵庫大仏」です。こちらの大仏は清盛の時代のずっと後の明治24(1891)年に建立されたもので、戦時中の金属回収令で供出されたのち、平成3(1991)年になって再建されました。以前の兵庫大仏は頭が大きく独特の風貌だったようですが、現在の兵庫大仏は新しいせいか整った姿をしています。

平相國廟

境内には「平相國廟」なる石塔がありました。こちらは平清盛の墓所として伝えられています。

平清盛についてはもはや説明は不要かもしれませんが、平安時代後期の武士・公卿です。若いころから朝廷と深いかかわりを持っていた清盛ですが、保元元(1156)年の保元の乱、そして平治元(1159)年の平治の乱でライバルとなる有力武将を滅ぼして地位を確立し、朝廷で絶大な権力を持つようになりました。そんな清盛が力を入れたのが前回も触れた宋との貿易です。古代~中世にかけて、瀬戸内沿岸には多数の港が整備され、大変に栄えることになりました。しかし、物流の変化でそうした港のほとんどは残っていません。そのなかで、兵庫津は少々場所はずれてはいるものの、現在でも日本有数の港湾都市として機能しているのは清盛の功績があったからかもしれません。後の時代では『平家物語』の印象が強く、どうしても憎まれ役であり、滅びの象徴と思われがちですが、それは平氏の歴史の一側面にすぎないと言えるのかもしれません。

月輪影殿

兵庫大仏が目立ってしまう能福寺ですが、本堂の月輪影殿も見どころです。こちらの趣ある建物は戦時中に空襲で焼失した本堂に代わり、昭和29(1953)年に京都・泉涌寺月輪御陵にあった拝殿を移築したものです。優美なカーブを描いた破風や軒の装飾が何とも言えない美しさですね。

能福寺を堪能したのちも、もう少し兵庫津を歩いてみましょう。

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