せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

平清盛の夢のあと・兵庫津を歩いて(前編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回までは和田岬を訪ねてみましたが、今回から和田岬をスタートして歩いてみたいと思います。

大輪田泊の石椋

和田岬から地下鉄で中央市場駅までワープし歩いていくと新川運河のほとりに出ました。こちらにあるのは「大輪田泊の石椋」なる岩です。

現在の神戸港はかつて「大輪田泊」と呼ばれていました。その歴史はというと、奈良時代の僧・行基が摂津・播磨に設けた五つの港・摂播五泊の一つとして開いたのが始まりと言われています。ただし、行基と弘法大師と豊臣秀吉が出てくる伝説は怪しいもので…、前回訪れた和田神社や三石神社の歴史などを考えてみれば、古くから港として開けていたのでしょう。こちらの岩は古代に防波堤や突堤の基礎として使われた「石椋」であると言われています。

漁港の景色

大輪田泊の石椋の近くの新川に広がるのはこんな景色。神戸港というと貿易港としてのイメージが強いのですが、このあたりまで来ると漁港のような景色を見ることができます。

清盛くん

新川に架かる橋のほとりにあったのが「清盛くん」なる像。 この像のモデルになったのは平清盛です。

古くから港として栄え、遣唐使の中継地点ともなった大輪田泊に目を付けたのが平清盛です。応保2(1162)年に福原に別荘を設けた清盛は目の前に広がる大輪田泊の修築に着手、「経が島」と呼ばれる人工島を築く等の大改良を行なって、当時中国を支配していた宋との貿易、日宋貿易の拠点に整備しました。

兵庫城跡

清盛くん像から新川沿いに歩いていくと、整備された公園のような場所に出ました。一角には「兵庫城跡」の石碑があります。清盛以後も国際貿易の拠点として栄えた兵庫津(かつての大輪田泊)は近世に入ると尼崎藩領を経て江戸幕府直轄領の天領となりました。この地に城を築いたのは花隈城攻めで功を上げた池田信輝で、天正9(1581)年のことでした。尼崎藩時代にはこの城は兵庫陣屋となり、後に江戸幕府の勤番所となりました。幕末の日米修好通商条約によって新潟、長崎、横浜とともに兵庫が開港地となったことで兵庫の重要性はより高まることになり、明治に入って発足した「兵庫県」ではこの地に県庁が置かれました。その初代県知事になったのは、なんと後に初代総理大臣を務めることになた伊藤博文です。

新川を眺める

そんな歴史の舞台になったのが信じられないほど、今の新川沿いは静かでした。

大輪田泊~兵庫津を歩いてきましたが、周辺の歴史スポットはまだまだ序の口です。もう少し歩いてみましょう。

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