せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

和田岬を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、和田岬を歩いてみたいと思います。

三石神社

和田岬駅の傍にあったのは三石神社。小さな神社なのですが、はるか神代にまで遡る非常に古い歴史を持った神社です。鳥居の傍の石碑に「神功皇后上陸此地」とあるように、伝説では神功皇后が朝鮮征伐の帰途に三つの石を神に見立てて儀式を執り行ったことをそもそもの始まりとしているようで、その後、古代には推古天皇が禊を行ないました。その後、奈良時代に入り行基が和田泊を整備した際に神功皇后の神霊が現れ、船の航行を守るとのお告げがあったことから、推古天皇の禊殿跡に祠を建立し、神社として整えられていきました。

和田神社

三石神社の隣に大きな鳥居を構えるのが和田神社。この神社も長い歴史を持っていて、やはり、はるか神代、淡路島より蛭子大神がこの地の後に「蛭子の森」呼ばれるところへ流れ着いたのが始まりとされています。ちなみに、摂津の西部で蛭子大神を祭ったのはこの地が初めてと言われています。

和田神社の境内

訪問した時はちょうど七五三の時期だったので、境内は子供向けの飾りが為されていてちょっと賑やかな雰囲気でした。

和田神社が大きく変化したのが平安時代のこと。和田岬の地に港を開いた平清盛が承安3(1173)年に安芸の厳島神社より市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ)を祭り、神社として急速に発展することになりました。この市杵嶋姫大神はもともとは福岡県宗像市の宗像大社に祭られている神の一柱で、他の二柱の女神と合わせて宗像三女神と言われています。この三女神には玄界灘に浮かぶ「神の島」こと沖ノ島に祭られている田心姫神(たごりひめのかみ)がいて、なかなか興味深くあるのですが、そこまで話を広げると和田神社から離れてしまいますので、またの機会ということにします。

影向松

境内には「影向松」なる立派な松が植えられていました。

この影向松に奇瑞が顕れたのは江戸時代の延宝8(1680)年のこと。松の木に和田明神の正体とされる白蛇が顕れたそうです。そのこともあってか、今の和田神社では「祈願巳」と呼ばれている小さな白蛇に願い事を書いて納めれば願いがかなうと言われています。

松の下の祈願巳

松の下にはたくさんの祈願巳が納められていました。境内には祈願巳を集めた巳塚もあります。

清盛以後も発展してきた和田神社ですが、明治に入り、和田岬に造船所が建設されることになったため、隣接する三石神社ともども現在の場所へ移ることになりました。神代からのゆかりの地を離れることになりましたが、多くの建物は現在地に移築され、関西一の大きさと言われる石鳥居が移転に合わせて建立されました。この鳥居は阪神淡路大震災で倒壊して現存していませんが、神社は今も地域の信仰を集め、和田岬を見守っています。

次回からはこの和田岬より平清盛が夢見た兵庫津を巡っていきたいと思います。

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